「~跡」や「~発祥の地」については、今までも書いたことがあるかもしれないが、あまり積極的には取り上げていなかったかもしれない。
説明板を発見するたびに撮っているのだが、他の記事を優先させてしまうため、時間経過とともに自分の記憶の中から飛んで行って、日の目を見ることが少ない。
そのように埋もれさせてしまっているものも、今後は取り上げていこう。
「ヒューリック浅草橋ビル」
片隅に何か記念碑のようなものが見えた。
発見日 2023年2月18日
発見場所 東京都台東区浅草橋一丁目22-16
それは福井松平藩邸跡の石碑だった。
下には福井中学校の歴史が書かれていた。
福井中学校の歴史
明治36年(1903)
「東京府東京市福井尋常小学校」として開校。
昭和4年(1929)
復興校舎落成。
鉄筋コンクリート造3階建、設計は東京市、施工は松村組であった。
昭和22年(1947)
学校教育法の施行に伴い、福井小学校は「福井中学校」として生まれ変わる。ここで、福井小学校は廃校となる。
新しく誕生した「福井中学校」は、戦後、7,905名の卒業生を社会に送り出した。
平成3年(1991)
少子化により蔵前中学校と統合し「浅草中学校」となり、福井中学校は廃校となる。
平成22年(2010)
旧校舎は解体される。
校名は旧町名「浅草福井町」によるが、その福井町は越前福井藩松平家の屋敷があったことに由来している。
ここにも旧町名の痕跡が残っていた。
第1福井橋架道橋
第2福井橋架道橋
「浅草福井町」の旧町名由来案内はないようなので、「浅草新福井町」の旧町名由来案内を見つけてきた。
その昔、この地は鳥越村の内にあった。延宝二年(1674)出羽秋田城主佐竹右京太夫の邸地とされたが、享保三年(1718)に西北の隅を分割して同族の佐竹左近将監の邸地となった。その後、大きな変化もなく幕末をむかえるが明治五年(1872)二邸地を合わせて新福井町は誕生した。さらに昭和九年六月一日、東側半分は旧浅草橋二、三丁目となり本町の区域は定まった。そして昭和三十九年、住居表示の実施で現在の浅草橋一、二丁目になった。町名の由来は、明治五年に本町ができたおり福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。なお、福井町は元和四年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町にちなんで享保十五年(1730)に名付けられた。
「新福井町の弁天様」
かつて、新福井町には弁天堂があった。大正十二年の関東大震災で焼失したが町内の有志により、それまでにも増して荘厳なお堂が再建された。毎月十三日と二十六日が縁日で、福井町通りには夜店が多数出てにぎわった。
その後戦災で焼失し、現在は浅草橋一-三十三-六にまつられている。