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物揚場跡の碑と境界標と千代田区町名由来板:内神田一丁目

神田橋南詰すぐ、「千代田区神田公園区民館」わきに、今まで気が付かなかったものがあった。たぶんだけど。

 

発見日  2023年4月25日

発見場所 東京都千代田区内神田一丁目

 

物揚場跡の碑と千代田区町名由来板:内神田一丁目

日本橋川水運の
物揚場標石
ここに出土す
往時をしのぶよすがとして
後世に伝える 
昭和五十八年三月 
千代田區

「區」と旧字体になっているのがいいね。

 

碑の両側に3本の標石があった。

 

右側2本

物揚場と刻まれている。

右側と中央の石の大きさや形が違っている。

 

一番右側の側面

境界標と刻まれている。

 

一番左側のもの

物揚場と刻まれている。

 

右側面

境界標と刻まれている。

 

それぞれ上から見たところ

紋章が右2本に刻まれている。左側のものには紋章がない。

右側と中央の紋章の形が異なっている。

 

それぞれの違いについて調べてみたいのだが、これらの境界標について書かれているものが見つからないので、詳細は不明。


千代田区町名由来板:内神田一丁目

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのために建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図んは鋼板と電話があるだけです。
 明治五年(1872)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966)、内神田一丁目に編入されました。
 昭和五十八年(1983)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993(、地位世だくのもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変りました。 

神田橋町会

 

明治三十年頃の神田橋付近

 

「内神田一丁目」界隈(安政3年・1856)