歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

西新井大師で牡丹・桜・藤・青紅葉の饗宴を愛でる

ネットで調べていたら、ちょうど牡丹が見頃らしいということなので、訪問してみることにした。

花の季節に訪問するのは初めてかもしれない。

山門は江戸時代後期の建立。

足立の名所・西新井大師
西新井大師は、正式名称を五(ご)智山(ちさん)遍照院(へんじょういん)総持寺(そうじじ)という新義(しんぎ)真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)の寺院(じいん)である。
寺の伝えでは平安時代初め、全国で天災や疫病がはやったとき、この土地を通りかかった弘法大師(こうぼうだいし)が十一面(じゅういちめん) 観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)のお告げでその仏像を刻み、災いがおさまることを祈った。その効果があって災いは去り、この地の人々はお堂を建てて大師作の十一面観世音菩薩像と大師像をまつったという。西新井の地名は、弘法大師が祈祷する際、仏に備える水がないので大地に向かって祈ると新しい井戸がわき出たという伝説にちなんだものと言われる。
本尊は、過去数回の大火でも無事であったため、「火(ひ)伏(ぶ)せの大師」とも称された。やがて利益の期待は、防火から厄除け全般に広がった。江戸時代後期、江戸周辺の名所を紹介した地誌類には、普段の参詣客も多いが、特に毎月21日の縁日には本尊の開帳があって大変なにぎわいであると書かれている。かつて足立区周辺には、西新井大師に向かって「大師道(だいしみち)」 といわれるいく筋もの参詣路があった。
弘法大師伝説にちなむ寺と地名がはじまりと伝わる西新井大師は、江戸から東京を通じて、足立有数の名所として今に至っている。

訪問日  2024年4月16日

訪問場所 西新井大師(東京都足立区西新井一丁目)

ぼたん園

奈良の総本山長谷寺から移植され、西新井大師では文化・文政(1804-30)の頃よりぼたん園が展開された。


うれしいことに無料開放されている。

現在、約百品種2500株植えられているそうだ。



鐘楼堂と牡丹・桜

日米親善
対米十年期間梵鐘について
此の梵鐘は江戸時代作の名鐘の一つに数へられ由緒あるものです。過し第二次世界大戦に於て國家の要請に依り供出されたのであります。
終戦直後米巡洋艦パサデナ号にて米國に持帰り終戦記念品として艦と同名のパサデナ市に寄贈し同市役所玄関口ビーに丁重に飾られていたものであります。
本年六月市及び市議会の決議により日米親善の絆として外務省を通し返還があり戦後十年ぶりに 親日米人ブッシュネル氏、朝日新聞社、大同海運株式会社、東洋実業株式会社等日米両國民の善意のうちにリレー式に運送され、七月二十五日大同海運の高治丸にて無魔海を渡り横浜港にて盛大なる受領式を挙行し、日比谷音楽堂に於て都民の歓迎会に臨み、都内行進後、当山に安着致し、翌二十六日、荘厳なる帰還梵鐘奉迎供養会を厳修したのであります。

昭和三十年七月二十日
           西新井大師總持寺
昭和四十五年六月八日パサデナ市民
来山参詣に際し新たに記す

主役の座は牡丹に移りつつあるが、遅咲きの桜も満開だった。



大日如来尊像

密教の教主にて梵名を摩訶思盧遮那と云う。摩訶は大の義、思盧遮那は日の別名なので大日と訳す。
字宙に遍照する理智の法身体として尊ばれているこの大日如来尊は、修験道に名高い出羽三山の一つの湯殿山大日如来を勧請したもので文政年間の建立である。

真言
おんばざらだどばん

藤は少し早かったようだ。



青紅葉



オオデマリ



塩地蔵

裏は第二ぼたん園

ここに安置の地蔵菩薩は、江戸時代より特にいぼ取りその他に霊験ありと伝えられ、御堂内の塩をいただきその功徳ある時、倍の塩をお返しするところから塩地蔵と申し諸人の信仰盛んなり。

真言
おんかーかーかびさんまえいそわか

塩地蔵覆屋新築工事の設計施工は清水建設だった。


こんなにたくさんの美しい花を一度に観賞できるのは、今の季節だけかもしれない。