歩・探・見・感

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埼玉県内で最も高い木造の建造物《 埼玉県指定有形文化財 西福寺 三重塔 》

梅の花の季節だ。(投稿する頃(2023年4月21日)は桜の季節も終わってしまった。)

花の間に月が見えるように撮ってみた。

梅の花がぼけてしまった。

 

当初訪問する予定はなかったが、埼玉県内で最も高い木造の建造物があるということを知り、訪問することにした。

 

訪問日  2023年1月31日

訪問場所 埼玉県川口市西立野420

 

ここにたどり着くまでに自宅から約4時間かかった。

寄り道しなければ2時間強で着けたはずだった。

 

遠方に三重塔と百観音堂が見える。

空には月が見える。

 

西福寺はこっちか。

と言っても道路から見えるのだが。

 

残念なことに西福寺の前で電線架け替えの工事をしていたので、山門付近からは撮れなかった。

 

三重塔と金剛力士

 

正面

 

右側面

 

左側面

 

後ろ正面

 

斜めから撮る

西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(810-824)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり、県下では一番高い木造の建造物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄六年(1693)三月二十七日に建立完成されたもので、かつては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本もつかわず細工によって作りあげてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井近くにある「蟇股」には、十二支を表わす動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
また、入口正面にある観音堂には、西国、坂東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂に参詣すれば、百ヵ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑うところである。

 

一層部分の四方には干支を刻んだ蟇股(かえるまた)がある。

右から猪・子・丑

 

右から寅・卯・辰

 

右から巳・午・未

 

右から申・酉・戌

 

観音堂

 

江戸の日帰り行楽圏

 荒川を渡ってすぐの川口宿は江戸から約3里5丁(12.5km)、西福寺のある西立野まで足をのばしても、江戸人の足なら日帰りも可能な距離だった。途中の川口宿や鳩ヶ谷宿で1泊することもでき、当時の庶民の行楽の場としては手頃だったと思われる。
 また、江戸から近いわりに山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人たちをひきつけていた。文化11年(1814)から刊行された『遊歴雑記』の著者・津田大浄も、西立野を訪れて百観音に参詣し、野点連句を楽しんでいる。
 西福寺周辺の路傍を注意してみると、当時の人々の往来を偲ばせるような、道しるべや庚申塔の類を多く見つけることができる。

 

百観音信仰

西福寺観音堂の本尊である如意輪観音の胎内には、西国・坂東・秩父あわせて百ヵ所の札所の観音像が納められており、このお堂に参詣することで、百ヵ所の札所をめぐったと同じ御利益があるとされている。「新編武蔵風土記稿」には、観音堂の再興は元禄3年(1690)と記されている。また堂内には、三重塔と同じく徳川三代将軍家光の娘千代姫から寄進された金箔押しの百体の観音像が安置されている。
毎年8月9日の大護摩の日には、四万六千日分の縁を求めて現在も多くの参詣者が訪れる。一ヵ所で百ヵ所分、一日で四万六千日分の功徳が得られるこの日は、観音信仰が盛んであった江戸当時も賑わったことだろう。明和2年(1765)に行われた三重塔修理の際には、百観音信仰の任期を裏付けるように、一万二千人以上の庶民からの寄進があり、この時の寄進者の名前を記した柿板(こけらいた)が今も残されている。

 

西福寺をめぐる庶民信仰

 西福寺が地域の庶民の信仰生活と深く関わっていたことは観音信仰以外からも読みとることができる。
 境内には、寺周辺地域の守り神であった地荒神の社、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像をまつる地蔵堂講中という字が見える石造物、西南戦争で戦死した兵士の石碑などがあり、境内から少し離れたところには西福寺が管理している稲荷社もある。昭和30年頃までは、住職による加持祈祷も行われていたという。
 江戸から現代に至る庶民の信仰の諸相を知る格好の材料が、ここ西福寺には豊富に残されている。

 

覚えていればの話だが、来年(2024年)こそは桜の季節に訪れたい。