歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 江東区南砂町

城東区の区域シリーズ第4回目、早くも最終回となった。

今回は、「南砂町」を紹介しよう。

 

以前「南砂町」を探索したことがあったのだが、発見することはできなかった。

今回の探索でようやく発見することができた。

今回発見したのは現南砂にあるものではなく現東砂にあるものであった。

 

発見日  2022年9月12日

 

江東区南砂町七ノ一二三

発見場所 東京都足立区東砂六丁目

これは事前調査では見つからなかったので、現地で探索するつもりだった。

日差しが強い中、目的のものを探すため砂町水辺公園を歩いていた。

砂町水辺公園にある目的のものは発見できたので、②を探すために土手を登り、降りようとしたところ、ちょうど真下辺りに見覚えのある建物が見えた。

近づくとやっぱりそうだった。

何という偶然!

探索する手間が省け、ラッキーだった。

古地図と現代地図を見比べて、このあたりだろうとストリートビューで探していたのだが、全然違うところを探していた。

古地図にはこの番地が記載されていなかったので、このあたりだろうと思ったところが間違っていたようだ。

 

江東区南砂町八丁目二三三七番地

発見場所 東京都足立区東砂八丁目

②は①同じ通り沿いにあった。

 

歴史

1878年明治11年)11月
郡区町村編制法により葛飾郡のうち東京府に所属する部分が南葛飾郡となった。

1889年(明治22年
市制町村制により砂村新田、亀高村、又兵衛新田、荻新田、太郎兵衛新田、中田新田、大塚新田、冶兵衛新田、八郎右衛門新田のほぼ全域と永代新田、平井新田、久左衛門新田、八右衛門新田、南本所出村のそれぞれ一部が合併され、砂村となった。

1921年(大正10年)7月1日
砂村は町制施行し、砂町となった。

1932年(昭和7年
砂町は東京市編入されて亀戸町、大島町と合併し城東区となった。この時に旧・大字永代、本砂町、平井、四十町を合わせた地域を南砂町一丁目から九丁目とし、残りを北砂町一丁目から十丁目とした。

1967年(昭和42年)7月1日
住居表示を施行し、南砂町一・二・三・五丁目と四・六丁目の一部に深川平井町、深川東陽町の一部を合わせて境界整理し、現行の南砂一丁目から七丁目が誕生した。南砂町六丁目の大半と七・八丁目は北砂町八丁目と合わせて東砂六丁目から八丁目となり、南砂町四丁目の大半と九丁目は新砂一丁目から三丁目となった。

 

城東区時代の旧町名の痕跡は、まだ発見できていない。

城東区は、「東京大空襲」で区内のほぼ全域が焼失したそうなので、それが大きな要因であろう。

旧町名(亜流)でも構わない。

でも全域が焼失したということは神社仏閣にも痕跡が残っていないかもしれない。

可能性は低いかもしれないが、自分的にこれが痕跡だと言えるものを発見できればいいのだ。

と今後も探索を継続することを心に誓ったのだった。

電力プレート エコダ-8

漢字で書くと「江古田」で、読み方は「エコタ」「エゴタ」「エコダ」「エゴダ」の4種類がある。

西武池袋線江古田駅は「エコダ」と読むが、都営大江戸線新江古田駅の江古田は「エゴタ」と読む。

西武線江古田駅は東京都練馬区旭丘に、大江戸線新江古田駅は中野区江原町にある。
練馬区には江古田駅周辺を含めて「江古田」という地名はないが、中野区には江原町に隣接する形で「江古田」の地名が存在し、「エゴタ」と読む。

新青梅街道に架かる江古田大橋は、中野区にあるにもかかわらず橋の根元のプレートに「えこたおおはし」と濁らずに書かれている。

ややっこしすぎる。

自分的には「エコダ」が言い易いが、言い易いという問題ではない。

そうなっているのである。

さて、この電力プレートは「エコダ」になっている。

ということは中野区ではなく練馬区のものとなるわけだ。

 

発見日  2022年8月27日

発見場所 東京都練馬区旭丘一丁目

歴史

江戸時代、上板橋村字江古田といって、多摩郡江古田村(中野区)の新田であった。

1872年(明治6年
東京府第9大区4小区上板橋宿」に再区分。

1878年明治11年
郡区町村編成法「東京府北豊島郡上板橋村江古田」。

1897年(明治22年
市制・町村制「東京府北豊島郡板橋町上板橋村江古田」。

1932年(昭和7年
東京35区制
板橋区が成立。
上板橋村江古田は板橋区古田町になる。

1947年(昭和22年)
板橋区古田町練馬区板橋区から独立したことで練馬区古田町になる。

1960年(昭和35年
古田町は町名地番整理により旭丘に改名する。これにより練馬区で江古田町の地名が消滅する。

新しい町名にはいろいろ議論があり、結局は住民投票で、地元小学校の名にあやかって旭丘に決まった。

旭丘小学校も、もとは上板橋第三小学校といっていたが、練馬区編入のとき改称した。区内で最初に朝日が仰げる丘という意味で、校歌の一節に「のぼる朝日に・・・」とある。

 

地名の由来

当然のことながら諸説ある。

中野区のホームページには二つの説があるとしている。

一つはエゴの木がたくさん生えていたからという説、もう一つは江古田の森のあたりに江古寺という寺院があったことによるというものです。平成15~16年の看護学校建設に伴う発掘調査で14~15世紀前半の寺院の跡が発見されていますので、後説が有力となっています。

 

「江古田」の読み方問題については、調べてみると、多くの方が書かれているので、素人の自分の出る幕はないなと思い、深追いはやめることにした。

旧町名 江東区北砂町

城東区の区域シリーズ第3回目の今回は、「北砂町」を紹介しよう。

 

江東区北砂町三ノ一一六

発見日  2022年9月12日

発見場所 東京都江東区北砂三丁目

いつもできるだけ表札に近寄り、表札全体を中央にして撮るようにしているのだが、今回は、右側にも表札があり、その右側の表札が入らないようにするため、右寄せで撮った。
それを意識したためか、上が空いてしまい、下の部分がわずかだか欠けてしまった。

ゆっくり撮れる場合もあるが、だいたいは周りを気にして、パッと撮るため、中々気に入ったのが撮れない。

旧町名が写っていればいいのではないかと思うだろうが、自称アマチュア旧町名マニアでも、多少のこだわりがあるのである。

他の方はどのようなことに気を付けて撮られているのか気になるところである。

 

江東区北砂町四ノ一六〇四番地

発見日  2021年9月18日

発見場所 東京都江東区北砂

 

江東区北砂町八ノ一六七

発見日  2022年9月12日

発見場所 東京都江東区東砂五丁目

何故かラップで覆われている。

 

車1台が通れるくらいの細い路地が、何本かあるところだった。

工事中の路地もあった。

どこだったっけ?

何本目かの路地に入る。

あった。

ここだ。

と思った時、道を挟んだお宅付近から物音がした。

ふと見上げると、2階のベランダで洗濯ものを取り込んでいる姿が見えた。

少し先に進みスマホいじり。

なかなか終わらない。

先の目的地に行こうと思ったが、少し離れている。

仕方ない。

周辺をブラリ。

戻ってくると、取り込みが完了していたようなので、落ち着いて写真を撮り、次の目的に進む。

 

地名の由来と歴史

砂村の村名は、明治22年4月1日、多くの新田を合併して代表的な、砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした。

大正10年6月30日、砂村を砂町と改称、更に昭和7年10月1日、城東区が成立したとき砂の字を残して北砂町・南砂町とした。そして、昭和41~2年の住居表示制度実施にともない北砂・東砂・南砂・新砂へと町名を変更した。

現在の北砂は、八右衛門新田(はちえもんしんでん)、治兵衛新田(じへえしんでん)、久左衛門新田(きゅうざえもんしんでん)、大塚新田、亀高村等の地域で、昭和7年城東区北砂町一・二・三・四・五の各丁目(ちょうめ)となり、昭和41年に北砂となった。

旧町名 江東区大島町

城東区の区域シリーズ第2回目の今回は、「大島町」を紹介しよう。

 

「大島」は何と読む?
「おおしま」?「おおじま」?

その答えは記事の最後に書いてある。

 

江東区大島町2の34

発見日  2021年6月5日

発見場所 東京都江東区大島二丁目

 

大島町八ノ二九一番地

発見日  2022年9月12日

発見場所 東京都江東区大島八丁目

古そうなアパートに設置されていた。

 

歴史

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、東京府南葛飾郡および深川区横十間川以東)の以下の各町村が合併して大島村が発足。
全域
小名木村…天正年間(1573年〜1592年)に小名木川を開削した小名木四郎兵衛が拓いた村。
六間堀出村…もとは深川六間堀地区の各町の飛地
平方村…河内国枚方村(現在の大阪府枚方市)の出身者が開拓した村。
一部地域(カッコ内は残部の編入先)
深川本村(東京市本所区東京市深川区
中ノ郷出村(亀戸村)
猿江村(東京市深川区
大島村(東京市深川区
深川出村(東京市深川区
北本所出村(東京市本所区、亀戸村)
南本所出村(東京市本所区、亀戸村、砂村)
小梅村飛地東京市本所区、亀戸村)
須崎村飛地東京市本所区、寺島村、大木村)
亀戸村飛地東京市本所区東京市深川区、亀戸村、吾嬬村)
東京市深川区:深川下大島町の全域、深川上大島町の一部

1900年(明治33年)7月19日
大島村が町制施行して大島町となる。

1915年(大正4年)8月31日
15の大字名が整理統合され、大字一~八丁目となる。(小字は廃止される。)

1932年(昭和7年)10月1日
南葛飾郡全域が東京市編入大島町の区域は城東区となる。
大島町の大字一~八丁目はそのまま城東区大島町一~八丁目の八か町になる。

1947年(昭和22年)3月15日
城東区深川区と合併して江東区を新設。

1965年(昭和40年)
住居氏実施により、大島町一〜八丁目より大島1〜9が成立。

 

地名の由来

江戸時代の正保(しょうほう・1644~47)ごろ、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めてその名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたといわれる。

「大島」の呼び名は、弘化四年(こうか4ねん・一八四七)改版「江戸町鑑」(えどまちかがみ)に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調しており、これは深川猟師町の一つの大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだのであろう。その後昭和40年の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むよう決められた。

旧町名 江東区亀戸町

江東区の旧城東区の区域を集中的に、いや、1日なので、集中的にはとは言えない、残暑の厳しい中(最高気温30.9℃)、ざっと探索してきた。

その努力の結晶を、今回から4回シリーズで紹介していこう。

第1回 亀戸町

第2回 大島町

第3回 北砂町

第4回 南砂町

城東区の区域にあった旧町名は町がなくなっただけで、面白みがないが、今のところそれほど多くは発見できていない。

思ったより現存率は少ない印象だ。

 

ここで、ざっと歴史を振り返ってみよう。

江東区は以前、深川区城東区に分割されていた。明治維新後に江戸が東京府となり、1878(明治11)年の郡区町村編成法により、15区の一つとして深川区が誕生。亀戸、大島、砂村は南葛飾郡編入された。
その後、1932(昭和7)年に亀戸町、大島町、砂町が合併して城東区となり東京市編入。このとき、東京市区域は35区となっていた。
そして1947(昭和22)年3月、東京都深川区城東区が合併し、江東区が誕生した。

 

それでは第1回目は「亀戸町」を紹介しよう。

 

江東区亀戸町五ノ一八一

発見日  2022年9月12日

発見場所 東京都江東区亀戸五丁目

 

江東区亀戸町五の二七二

発見日  2022年9月12日

発見場所 東京都江東区亀戸五丁目

道路の反対側で工事をしていたので、慌てて撮ったせいか、少しボケてしまった。

 

江東区亀戸町六丁目一八番地

発見日  2021年9月18日

発見場所 東京都江東区亀戸六丁目

表札にフックが取り付けられていたが、何を掛けるつもりなのだろうか?

 

歴史

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、東京府南葛飾郡下8村の各一部と本所区横十間川以東の区域が合併して亀戸村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
亀戸村の一部(東京市本所区東京市深川区、吾嬬村、大島村)
柳島村の一部(東京市本所区
深川出村飛地(大島村)
北本所出村飛地東京市本所区、大島村)
南本所出村飛地東京市本所区、大島村、砂村)
小梅村飛地東京市本所区、大島村)
中ノ郷村飛地(大島村)
押上村飛地本所区
本所区:亀戸町、本所瓦町、本所五ノ橋町、本所松代町四丁目

1900年(明治33年)7月19日
亀戸村が町制施行して亀戸町となる。

1925年(大正14年)11月10日
12の大字名が整理統合され、大字一~九丁目となる。(小字は廃止される。)

1932年(昭和7年)10月1日
南葛飾郡全域が東京市編入。亀戸町の区域は城東区となる。
亀戸町の大字一~九丁目はそのまま城東区亀戸町一 ~九丁目の九か町になる。

1947年(昭和22年)3月15日
城東区深川区と合併して江東区を新設。

1968年(昭和43年)
住居表示実施により亀戸町一〜九丁目から亀戸1〜9丁目が成立。

 

地名の由来

地名の由来にはいくつかの説がある。一つは、亀形の井桁がある亀の背の甲から水が湧き出る亀ケ井という古井戸があった。もう一つは、この地が島であったころ、形が亀に似ていたからというものである。更に、「かみど(神戸)」であったという説もある。

探索記録(2022年8月29日)

今回は中野区と杉並区を探索した中で、気になったものを紹介しよう。

 

杉並消防署

2021年12月3日、杉並消防署の車庫扉に巨大な広報パネルが登場した。

車庫扉が空いている朝から夕方までは左右に分かれているが、夕方扉がしまるとライトアップもされるようだ。

写真を別々に撮って合わせたみたが、うまくいかなかった。

 

寄附された防火用水が置かれていた。

 

ガソリンスタンドでクラッシックカーを見かけた。

Alfa Romeo Giulia Super 1.6

1965年には「ジュリア・スーパー」が登場した。「TI」にホモロゲーション獲得用の限定生産車「TIスーパー」のエッセンスを注入したモデルで、1570ccエンジンはウェバー40DCOEツインキャブで98馬力/5,500rpmを発揮、最高出力を発生する回転域が下げられ、低~中回転域のトルクも増強されて扱いやすさと高性能を両立させた。ダッシュボードも一新され、ステアリングホイールもスポーティーなデザインとなり、4輪ディスクブレーキはサーボ付きとなった。スーパーは好ましいスポーツサルーンとして人気を博し、成功作となった。1968年にはエンジンの102馬力へのパワーアップ(最高速度170km/h)、後輪サスペンションへのロールバー追加、タイヤサイズ変更(155/15から165/14に)が行われた。

若い頃、中古のBMW アルピナB7ターボを乗っていたことがある。

元の持ち主はレーサーだったと売却する時に知る。
有鉛ガソリンがあるガソリンスタンドがあまりなく、ガソリン代もかかったなあ。
とにかく維持が大変だった。
高速を走っているとき、水温が上がり、降りた後、ガソリンスタンドに寄ったら、水がなくなっていたこともあった。
その後、維持できなくなり、安値で泣く泣く売却。

次はルノー5ターボ。
結婚を機に売却することになるが、売却先の調査により、事故車だったことが判明。
騙されていたのだった。

その後はずっとホンダ車を乗り継いでいる。

 

中野区役所前に背の高い木があった。

説明板があり、それを見ると皀莢(さいかち)という名前の木だった。

初めて聞く名前の木だった。

皀莢の由来
かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。 その樹は江戸時代に青梅街道 の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生れたのは、その樹が街道の目印として人々に良く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。 当初植えられた皀莢は昭和14年枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく新たに植えられたものです。

 

御所桜

この桜は明治天皇御大葬の際、当時和田堀堀内村の村長だった私の祖父松島長五郎が葬儀に招待され、その参列記念として御下賜になった京都御所宮殿の桜の子孫であります。
この様に貴重な桜であり、またこの辺には類を見ない見事な桜ですから、枝を折ったり木に登ったりしないようにして下さい。
近隣の皆さんも御一緒に明治天皇の御遺徳を忍び、毎年末永く天皇家の御下賜の桜を楽しみましょう。

桜が咲いているときに、また訪問してみたい。

 

探索している途中、あるお宅の庭に動物たちがたくさんいた。

 

杉並区立松ノ木坂下公園

見たことがないくらい小さい超ミニ滑り台があった。

 

杉並区立済美児童遊園

ここの公園の滑り台には石材が使用されていた。

こりゃまた見たことのないユニークな滑り台だ。

 

杉並区立堀ノ内山谷児童遊園

 

街区表示板

角に設置されていたが、右側が松ノ木で左側が堀之内ということだろうか?

 

バージョン違いが並んでいた。


右側はよく見かける下に広告主が掲載されているタイプものものだが、どのような経緯で設置されたのかが気になる。
たぶん左側の自治体が設置したものより古いと思うが、右側も広告主を募って、設置したものなのだろうか?

町名看板もそうなのだが、どのような経緯で設置されたのかが気になるのである。

旧町名 江東区深川門前仲町

今回は江東区の旧町名「深川門前仲町」を紹介しよう。

 

江東区深川門前仲町一丁目  番地

発見日  2021年5月29日

発見場所 東京都江東区門前仲町

木製の表札だ。

文字が細いくて読みにくいが、木製の表札としては、まだ状態がいいほうだろう。

しかし、番地は自分の目では読み取れない。

 

②薄くて読みにくいような表札が1枚あったのだけど、表札の上に新しい表札が貼られていて、確認することができなかった。
建物がなくなっていなく、旧町名が記載されている表札は多分下にあるものだと思われるので、まだ消滅していないとしておこう。

 

歴史

明治11年1878年)11月2日
東京府下に15区6郡が置かれた。江東区の前身にあたる2区のうち深川区はこの時設置された。

1889年(明治22年
市制・町村制が施行され、同年5月1日、東京市(15区からなる)が成立。深川区東京市の区となった。

1911年(明治44年
深川区の町名は、富岡公園地と、埋立地に新設された洲崎弁天町を除く全ての町名に「深川」を冠称していたが、町名の簡素化が実施され、「深川」の冠称は廃止された

1931年(昭和6年
門前仲町、黒江町、蛤町2、門前山本町より深川門前仲町一〜二丁目が成立。

1943年(昭和18年)7月1日
東京府東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、深川区城東区を含む35区は東京都直轄の区となった。

1947年(昭和22年)3月15日
35区は22区に再編される。この時、深川区城東区は廃止され、両区の区域をもって新たに江東区が設置された。

1969年(昭和44年)
住居表示を実施し、深川門前仲町から現在の門前仲町に町名変更を行った。

 

地名の由来

富岡八幡宮別当寺である永代寺の門前に由来する。

別当寺 神社に付属して置かれた寺

富岡八幡宮の東隣には三十三間堂があり、西隣には富岡八幡宮別当寺院(神社に付属して置かれた寺)の永代寺があった。明治に入ると神仏分離令により廃寺となる。
この地には現在も永代寺というお寺があねが、このお寺は、後年、かつての永代寺の塔頭が名称を引き継ぎ再興されたもの。

 

門前仲町の火の見櫓

鉄骨造地上二階建築面積23.45m2 高さ9m

江戸時代、江戸の市中には火災の早期発見のため多くの火の見櫓が立っていました。高さ三尺(約9m)ほどの櫓の上部には早鐘が取り付けられいち早く火災の発生を知らせてくれました。
 深川の南部にも佐賀町下の橋際(佐賀二)富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられていました。
 なかでも門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近かつての富岡八万宮一の鳥居近くにありました。周辺は永代寺富岡八幡宮三十三間堂といった江戸名所が集まり現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所です。
 この櫓は深川の繁華街を守ると云う大きな役割をはたしていました。「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わりません。

深川江戸資料館   久染 達夫 文
門前仲町二丁目町会
      町会長 大竹 康夫 書
平成14年3月

 

山本一力 辰巳八景「仲町の夜雨」より

ー宝暦六(一七五六)年一月二十六日。江戸は五日続きで、朝から北風が強く吹いていた。
 永代寺門前仲町の辻には、黒く塗られた高さ六丈(約十八メートル)の、火の見やぐらが建っている。元禄三(一六九〇)年に普請(ふしん)されて以来、火の見やぐらは黒塗りだ。
 過ぐる六十六年の中で、何度か大きな地震に逢った。しかし差し渡し二尺(約六十一センチ)の、土佐魚梁瀬(やなせ)の大杉を柱に用いたやぐらは、大きく揺れながらも倒れなかった。
 地震をくぐり抜けたやぐらは、富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)とともに、深川住民の鎮守(ちんじゅ)様である。辻を往きかう人のひとの多くは、火の見やぐら見上げて手を合わせた。

 

火の見櫓近くの店の前に立っている牛がいた