歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 江東区深川猿江町

調べたら、江東区の記事はまだ2つしか書いていなかった。

東京23区内では最低だ。

決して訪問していないわけではないのだが、気が付いたら、そうなっていた。

そこで、久しぶりに・・・

でもないかもしれない。

久しぶりでも、久しぶりでもないかは読者には関係ないよね。

あまりにもあちこちに行き過ぎて、自分でも忘れしまったが、たぶん、今年訪問したことはあるだろう。

調べればいいのだが、めんどうくさい。

あー、どうでもいいことを書いている。

でも、調べてみたら、まだ、発見できていない旧町名がいくつかあることがわかった。

なぜ今まで、探索しなかったのだろう?

江東区はマイナーだから?

そうでもない。

見所はいろいろあるし、理由は分からない。

とにかく、未発見の旧町名探索に再上陸したので、その結果のいくつかを紹介していくことにしよう。

今回は「深川猿江町」。

 

江東区深川猿江町二ノ九

発見日  2021年6月5日

発見場所 東京都江東区猿江二丁目

 

江東区深川猿江

発見日  2022年9月10日

発見場所 東京都江東区猿江二丁目

これは①を発見した時に、当然のことながら、存在は知っており、目の前も通っていたのだが、何らかの理由で、撮り逃していた。

何せ一年前のことだ。

理由は覚えていない。

推測するに、これは路地に入ったところにあるので、たぶん、物音がしてビビったのだろう。

当時は今よりもっとビビりだった。

 

深川猿江の文字は、はっきりとはわからないが、この程度なら、マニアなら誰でも深川猿江と認識してくれることだろう。

しかし、上から別の表札が設置されていて、番地は確認できない。
 

歴史

1934年(昭和9年
帝都復興計画の一環により、上大島町猿江裏町、東町、本村町の一部を編入して猿江町一・二丁目とし、町域が確定。

1968年(昭和43年)12月1日
住居表示の実施により、現行の猿江一・二丁目となる。

 

地名の由来

康平年間(1058~1064年)、『源義家臣猿藤太』と記した鎧を身に着けた溺死体が村の入江に流れ着いたことによる、というのが定説。猿江神社はその遺体を埋めた猿塚(猿江塚)に建てられたという。
また、新しく埋立造成したので「新江(さらえ)」といい、それが「さるえ」に転訛したしたと考える説もある。
また、「ざる江」という説もある。「ざる」は「ざれ」で「川岸の崩れるところ=軟弱地」の意だという。「去る・江」というのも同じで似たような語源。この辺りの土地がまだまだ安定してなかった頃の状況をいったものだろう。

新幸橋跡碑 東京都中央区

今回の主人公は信号の右下に佇んでいるものである。

この写真を撮るためにずいぶん待った。

交差点だからか、思ったより人通り、車通りがあり、日差しが強い中、辛抱強く待ち続けた。

発見日  2022年9月10日

発見場所 東京都中央区銀座8丁目

千代田区から中央区に向かう途中で出会った。

この道は歩いたことがないのかもしれない。

突然、こんなところに現れたのだった。

最初は隣接する店の石柱か何かだと思った。

撤去されず良く残っていてくれたものだ。

 

 

正面

国会通りがJR山手線・京浜東北線東海道線をくぐるガード(内幸橋架道橋)の東側の銀座コリドー通りの交差点付近にある。

江戸時代・明治時代年間までは、新橋から山下橋間には橋はなかったのだが、大正12年関東大震災で、銀座側から日比谷公園方面に逃げようとして逃げることができず、被害を大きくしてしまったことを反省し、1929年(昭和4年)9月、地元の篤志家・藤平久太郎(ふじひら・きゅうたろう)らの私費と企業からの寄付で外濠に架けられた民間の橋だ。
開橋式を祝い、渡り初めを挙行したのち、東京市にこの橋を寄付した。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催決定を機に、外濠川の埋め立てが行われ、コリドー街の建設された1956年(昭和31年)11月に新幸橋は撤去された。

 

右側面

寄贈した旨が刻まれれている。

鑑大正十二年之惨禍仰有志醵金架橋梁
于此處以寄贈東京市永資公共安全

読み下すとおおよそ次の通りになるそうだ。

大正十二年の惨禍に鑑み、有志醵金を仰ぎ、此のところに橋梁を架け、東京府に寄贈するを以て、永く公共の安全に資する
  昭和 四年 十月       

         荘司岩三郎
         藤平久太郎

 

左側面

東京市に新幸橋を寄贈した篤志家と寄付をよせた企業名が刻まれている。

読み取れたのは以下の通りだが、誤字があるかもしれない

上段
仁壽生命保険株式會社   
日本勧業銀行       
大阪ビルヂング
東洋拓殖株式會社
東京電燈株式會社     
立憲政友會        
帝国火災保険株式會社   
先年銀行新橋支店     

下段
増島大一郎
太平生命保険株式會社
ビルヂング
第一銀行日比谷支店
住友銀行内幸町支店
川崎第百銀行日比谷支店
新聞聯會社

 

かつてもう一つの新幸橋があった。
明治以降、汐留川と呼ばれたほうの外濠にも新シ橋(アタラシバシ)と幸橋の間に新幸橋という名の橋が架けられていた。
1892年(明治25年)日比谷通りができた時に架橋され、明治の末、汐留川が埋め立てられた際に撤去された。

旧町名 江戸川区西船堀

東船堀と南船堀の表札は発見することができた。

西船堀の表札は存在しているのだろうか?

前回訪問した時は、どのあたりが西船堀の町域だったのかわからなかったが、路地の奥に怪しそうな小規模の住宅密集地らしきところがあった。
進入しようとしたが、その路地の入口の家の2階から爺さんが「入ってくるな!」と日傘を差したおじさん(自分のこと)ににらみを利かせているように見えたので、躊躇してしまい、進入を諦めた。

そこで、他の旧町名探索と合わせて再度、江戸川区に上陸することにした。

事前調査で町域を確認し、以前爺さんに行く手を阻まれた場所も含めて、ローラー作戦を決行した。

結果は・・・。

表札は発見することはできなかったが、何も収穫がなかったわけではない。

旧町名が残っていたものを紹介していこう。

 

船堀稲荷神社

鳥居の前に柑橘系の果実が生っていた。

『新編武蔵風土記稿』船堀村の条に「稲荷社」とあり、旧船堀村西組の鎮守で、東小松川の宝珠院が別当だったという。
1874年(明治7年)、現社号に改称して村社に列した。もとは西船堀村422番地に鎮座していたが、荒川の開さくにより、1915年(大正4年)、現在地に遷座した。

 

拝殿の下に刻まれていた。

 

船堀稲荷神社境内社 水神宮

 

狛犬に刻まれていた。

この神社に百度石があるのだが、「大正四年五月吉日建之 西船堀 鹿野仙太郎」と銘がある。
この狛犬には「昭和二年九月吉日 西船堀 八百仙」と銘がある。
百度石を奉納した鹿野仙太郎と同一人物なのかもしれない。

 

手水舎に架けられていた手ぬぐい

 

西船堀町会員プレート

 

西船堀町会器具置場

 

西船堀公園

所在地 船堀2丁目7番14号

 

「船堀中公園」整備にあたり

船堀村の南を流れる川(現在の新川)は舟入堀と呼ばれ、やがて船堀川となったと伝えられています。
「慶弔十九年(1614)宇田川弥次右エ門初代、船堀村開発」と宇田川家の石碑に記述が残っています。宇田川、鈴木両氏が船堀開村時の草分けとの説もあり、この頃光明寺が開山され山王社(現日枝神社)が勧請されています。
 元禄の頃、現在の船堀中公園の西を流れていた水路(法然寺川)を境に西組と東組にわかれ、西組には稲荷社が鎮守として勧請され、西船堀の開発が進みました。
「新編武蔵風土記稿」(文政年間刊)には、「公へは船堀村とのみ書し東西の分ちなし、されど村内に西組、東組と分ちて自ら二村ノ如し」と記されています。
 明治二十二年(1889)の市政・町村制施行時に、西船堀村、東船堀村に現南船堀地区を合わせて船堀村としました。
 明治四十四年(1911)に着工した荒川、中川放水路の開削により、西船堀地区は約百四十町歩が買収され、約百十戸が移転し、稲荷神社も現船堀一丁目に遷宮されました。

 

旧町名の痕跡は、異論があるかもしれないが、表札、電力プレート、住所プレートが3種の神器だと勝手に思っている。

でも、それだけでなくてもいいではないか。

3種の神器がメインであることは重々承知しているが、自分は、それ以外も旧町名が刻まれていれば、旧町名の痕跡と認定することとしたい。

それ以外とは何か?

今のところ考えているのは、神社仏閣、公園、町内会、資料館などの展示物などである。

しかし、これはあくまでも当ブログ内に限ってのことで、個人的定義である。

その定義に則って、当ブログでは今までいくつか紹介しているが、他の方も紹介しているのを見かけたりする。

当然主流にはならないだろうが、亜流でもいいではないか。

旧町名 渋谷区幡ヶ谷原町

調べていたら、旧町名「幡ヶ谷原町」で見落としているものがあることが分かったので、探索してきた。

無事発見することができたので、以前発見したものと合わせて紹介することにしよう。

 

①澁谷区幡ヶ谷原町九一九番地

発見日  2021年3月11日

発見場所 東京渋谷区幡ヶ谷一丁目

文字が薄くなっているが、まだ読める。

古くてもはっきり残っているものとこのように薄くなっているものがある。
更にほとんど消えていて、右斜めから、左斜めからとかいろいろ角度を変えてようやく確認できるものもある。
そうなると写真に撮るのも大変だ。
肉眼では見えていても写真にとるとうまく撮れない。
そういう場合は、心で読んでと書くしかない。
心苦しいが、そのようなものも何枚か紹介したことがある。

これらの違いは何だろうか?

インクの種類によるのだろうか?

 

②渋谷区幡ヶ谷原町800

発見日  2022年9月6日

発見場所 東京渋谷区幡ヶ谷二丁目

甲州街道から入ると西側には抜けられるが、北側にも東側にも抜けられないようなちょっと変わった区画の中にあった。

このようなところにまだ見ぬ旧町名が潜んでいるのかもしれない。

原町800の部分を白く消したようだが、薄れてしまい、はっきりと見える。

 

幡ヶ谷原町バス停

上にKEIO・都営・小田急と書かれているので、3社共同で利用しているバス停のようだ。

 

歴史

元来幡ヶ谷村では本村・中幡ヶ谷・下町・原・笹塚の5つの小字が存在した。

その後、字の増設が行われ、本村・本村北・本村西・下町・山谷・中幡ヶ谷・北原・南原・北笹塚・南笹塚の10個の小字になった。

1932年(昭和7年
東京市編入の際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。

幡ヶ谷本町一丁目~三丁目(←本村・本村北・本村西・下町・山谷)
幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷)
幡ヶ谷原町(←北原・南原)
幡ヶ谷笹塚町(←北笹塚・南笹塚)

1960年(昭和35年
町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。
本町一丁目〜六丁目(←幡ヶ谷本町)
幡ヶ谷一丁目~三丁目(←幡ヶ谷中町・幡ヶ谷原町
笹塚一丁目~三丁目(←幡ヶ谷笹塚町)

1968年(昭和43年)1月1日
住居表示を実施。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目~三丁目が成立した。

 

幡ヶ谷の地名の由来

1082年(永保2年)に源義家後三年の役から帰る途中に、小笠原窪(現在の本町付近)にあった池(旗洗池)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来する。

旧町名 豊島区椎名町 PartⅢ

旧町名「豊島区椎名町」についてはすでに2回下記の記事で紹介している。

citywalk2020.hatenablog.com

 

citywalk2020.hatenablog.com

 

今回はトキワ荘ゆかり地の旧町名「豊島区椎名町」を紹介しよう。

 

旧町名がらみでトキワ荘ゆかり地を紹介する変人は自分位であろう。

従ってトキワ荘ゆかり地についての記載はほとんどない。

 

発見日はすべて2022年8月23日。

 

トキワ荘看板

椎名町五丁目二二五三番地

旧町名時代の住所が書かれている。

 

トキワ荘マンガミュージアムは特別企画展期間中、全館有料だということだったが、この日(2022年8月23日)は火曜日だったので無料だった。

今回の企画展は『「開館2周年記念展示「漫画少年 大展覧号―幻の雑誌 完全揃い101冊―」』だった。

10月16日まで開催されているので、興味のある方は足を運んでみたらいかがだろうか。

 

南長崎花咲公園内にある電柱

椎名町五丁目2253

約40cm×23cm

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」の隣にある電柱に当時の琺瑯製町名看板のレプリカが設置されている。

訪問した時は材質まで気にならなかったが、記事を書くときに気になり始めた。
電柱は本物の木のように見えるが、コンクリート製ではないだろうか、と細かいところが気になる。
どうでもいいことではないかと思うだろうが気になるものは気になるのである。
調べてみたが、材質のことが書いてある情報は見つからず。
何かの機会で訪問するまでの宿題としておこう。

電柱は2009年10月に設置されたそうだ。
ただ照明を付けても面白くないので、ということで、トキワ荘の住所が書かれた琺瑯看板の付いた裸電球の街灯になったらしい。

 

③スエヒロ堂のレトロ電柱 記念碑 トキワ荘のヒーローたち←すぐそこ

椎名町五丁目4125

 

④あけぼの湯・あけぼのハウス跡

椎名町三丁目2036(現/南長崎1-6-1)

 

⑤目白映画跡

椎名町三丁目2031(現/南長崎1-3-1)

 

⑥エデン跡

下落合三丁目1485(現/中落合3-1-21)

 

⑦菊香堂跡と鈴木園

椎名町四丁目2122(現/南長崎2-1)

 

⑧旧・吉津屋米店

椎名町四丁目2126(現/南長崎2-3-2)

 

トキワ荘跡地入口

椎名町五丁目(現/南長崎3丁目)

 

⑩鶴の湯跡入口

椎名町五丁目(現/南長崎3丁目)

⑪鶴の湯跡

椎名町五丁目2258(現/南長崎3-19-2)

 

⑫田中正雄の仕事場跡

椎名町五丁目4120(現/南長崎3-9-34)

 

今回はトキワ荘関連のものは、旧町名が記載されているものしか紹介しなかったが、見所がいろいろある。

既に多くの方が紹介しているが、自分なりにまとめていずれ紹介できればいいなあと漫然に思っている。 

琺瑯町名看板 板橋区赤塚

今回は板橋区赤塚で発見した琺瑯町名看板を紹介しよう。

 

①から③までは既知のものだが、④はたぶん初見のもの。

 

①から③までの発見日は2020年7月27日。

 

板橋区赤塚4丁目38

 

板橋区赤塚6丁目29

 

板橋区赤塚7丁目2

 

この日(2022年9月8日)板橋区赤塚を探索していたら、特に探す予定はなかったが、通る道は大体いつも同じなってしまうのだろう、②と③に再会することができた。

 

板橋区赤塚5丁目10

発見日 2022年9月8日

 

この日は板橋区立郷土資料館に訪問することしか予定を立てていなかった。

郷土資料館訪問後は、以前も探索したことがあるはずだが、ご新規様を求めて、当てもなくぶらぶらすることにした。

見覚えがある風景があったので、やはり訪問していたのだった。

しかし、(これは階段を降りたところから撮ったものだが)このスリバチ地形になっているところは探索したことがないとおもわれるので、降りてみた。

この写真と同じ階段が「東京スリバチ地形散歩 都市新発見編」の大地の北・夕日の西[成増]④赤塚川の谷の中で、赤塚川の土橋として紹介されていた。 

 

階段を降りてすぐ電柱に巻き付いている哀れな琺瑯町名看板を発見した。

 

ご新規様発見!

広告主は①~③と同じだった。

曲げられてしまっているせいか、あまり状態が良くないのは残念だ。

こんな場所にあったので、今まで発見されなかったのだろう。

この辺りは坂道、階段だらけだが、この日は、曇りで、たまに小雨がぱらつき、歩いていてもそれほど汗はかかなかったのは幸いであった。

 

裏側から見たところ。

 

道の左右は下記のような長い階段が続いている。

 

赤塚植物園に向かう一方向だけ緩やかな道だった。

この辺りは、先ほどの書籍に谷の規模は小さくとも4方を囲まれた1級スリバチ地形として紹介されているので、スリバチマニアには有名なのかもしれない。

 

少し離れたところだが、ちょっと変わった階段があった。

地形の関係でこうしたのだろうか?

自分はまだ階段マニアやスリバチマニアになってはいないが、嫌いではない。

階段や坂の上り下りは全然厭わない。

足腰の鍛錬になると思っている。

旧町名 江戸川区長島町

江戸川区の旧町名「長島町」は約1年前に発見していたが、最近新たに発見したものがあるので、合わせて紹介しよう。

 

江戸川区長島町八五八

発見日  2021年9月23日

発見場所 東京都江戸川区中葛西二丁目

 

②長島町2232-6

発見日  2021年9月23日

発見場所 東京都江戸川区東葛西六丁目

 

江戸川区長島町二二三二番の五

発見日  2022年9月5日

発見場所 東京都江戸川区東葛西六丁目

②を発見した時は気が付かなかったが、すぐ隣にあった。
葉っぱの陰に隠れていたのだった。

 

江戸川区長島町二二八五番地

発見日  2022年9月5日

発見場所 東京都江戸川区東葛西四丁目

最初通った時、旧町名の表札があることに気が付いたが、少し離れているところに設置されている防犯カメラの存在にも気が付いた。
更に道を挟んだ所にある倉庫からの視線も気になった。
通り過ぎ、角の日陰から、倉庫の様子を確認。
問題なさそうだったので、戻って、表札の写真を撮る。

何もなくスムーズに撮れる時もあるが、このような時も少なくない。

ビビりなのでだいたいはドキドキしている。

 

江戸川区長島町2300-2

発見日  2022年9月5日

発見場所 東京都江戸川区東葛西三丁目

正面から撮ったため、自分の手が写ってしまった。

 

江戸川区長島町2380-5

発見日  2022年9月5日

発見場所 東京都江戸川区東葛西四丁目

看板と表札のダブルで旧町名があるのは珍しいかもしれない。

看板は問題なく撮れたが、表札はすぐには撮れず。

こちらの表札は事務所の右横にあるのが確認できた。

看板を撮った後に、タイミング悪く隣の家に親子連れが帰宅。

道路の反対側でスマホいじり待機。

家の中に入ったことを確認し、近くへ寄る。

えっ!窓が開いている。

表札は開いている窓の先にあるのだ。

人気がなかったような気がしたので、抜き足忍び足で近寄り、無事撮影し、足早に立ち去る。

今回もドキドキ💓だった。

 

江戸川長島郵便局

 

長島町会

 

神社の玉垣に刻まれていた

 

東京府南葛飾郡葛西村大字長嶌の表札については下記で紹介した。

citywalk2020.hatenablog.com

その中で歴史について記載しているが、再掲しておこう。

江戸時代は武蔵国長島村と言われていた。
明治4年1871年
廃藩置県となり幾度かの改正を経て 明治11年1878年)11月2日東京府南葛飾郡葛西村大字長島となる。
昭和7年(1932年)10月1日
市郡併合により大字、小字が廃止され、東京市江戸川区東長島町となり、昭和9年(1934年)5月1日長島町となる。
昭和18年(1943年)7月1日
東京都制施行により、東京都江戸川区長島町となる。
昭和54年(1979年)11月1日~昭和56年(1981年)11月1日
三ヵ年の間に葛西地区全般が現在の住居表示となる。

 

地名の由来

江戸川区郷土資料室の『江戸川地名の変遷とその集解』の「二、鎌倉時代の村名」で、「長島 長島の湊といい国府(下総)の外港として栄えたことがあった。」と記載されている。
「五、江戸時代小字の類型的分類と小解」では、水に関係ある地形的呼称の中に長島(村名)の名前があった。
また、江戸川区内に「島という名のついた地名は十カ所に及んでいる。島とは、かぎられた狭、または締の意という。海沼地などの中心に現れている地、四面水にかこまれた土地のことである。」と記載されている。

ここには「長島」の地名の由来の記載はないが、その漢字からすると、「長い」「島」の土地であったことが推測できる。