歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

神明神社とたにし不動尊 埼玉県幸手市

このブログでは社寺はメインの対象として考えていなかったが、いろいろ見所があり、調べてみると様々な発見がある。

ということで、全国的にメジャーな寺社を紹介することはあまり考えていないが、地元でしか知られていないようなマイナーな、ではない、失礼、地元ではメジャーかもしれない寺社を紹介していきたい。

 

ところで、神社、お寺を合わせて何と言うのだろうか?

自分は「寺社仏閣」だと思っていたが、正式には違うようである。
「社寺」なのか?、「寺社」なのか?、「神社仏閣」なのか?、「寺社仏閣」なのか?、「社寺仏閣」なのか?

見てると何が違うのかと混乱してきた。

そこで調べてみた。

神社:
神道の神様を祀ってある宗教施設

仏閣:
仏閣の「閣」とは『高くつくった建物、高殿』を表しており、金閣・楼閣・天守閣など、高さがあって格式もある建物に用いられる事例が多い。
「仏閣」は、『仏様の(いらっしゃる)建物』、つまり「仏閣」は寺の建物、寺院となる。

ということで「寺社仏閣」だと「お寺・神社・お寺」ということになり、「社寺仏閣」でも、「神社・お寺・お寺」ということになり、お寺が重複することになってしまう。

つまり、言葉の意味として考えると、「神社仏閣」と「寺社仏閣」・「社寺仏閣」では正しいのは「神社仏閣」の方だと言える。
しかし、派生語として「寺社仏閣」が実用語辞典などに記載されており、一般に認識されている言葉だと解釈できるので、一概に誤りとも言えないのかもしれない。 

「寺社仏閣(じしゃぶっかく)」と「神社仏閣(じんじゃぶっかく)」だと「じしゃぶっかく」の方が言いやすいので、「じしゃぶっかく」が広まったとも言われている。

「寺社」も「社寺」については、同じ意味だが、
「寺社」は江戸時代までは「寺」を優遇する制度があったため、 「寺」を先に言う「寺社」が用いられていた。
「社寺」は日本古来の土着信仰を受け継いできた存在としての神道の「社」を先に、後から外国から伝来した宗教である仏教の「寺」を後にするという考えから「社寺」と言っているそうだ。

ということで、このブログでは「神社仏閣」に統一しよう。
でも、そのうち書いたことをすっかり忘れて、慣れている「寺社仏閣」と書いてしまうかもしれない・・・。

 

発見日  2020年3月25日(撮影日2021年12月6日)

発見場所 埼玉県幸手市中2丁目(旧町名:大字幸手字右馬之助町6249)

 

神明神社とたにし不動尊の案内板

新しく再設置されたのだと思われる。

f:id:citywalk2020:20211206191059j:plain

以前の案内板には、以下の記述があった。

 神明神社は、宝暦五年(一七五五)に伊勢皇太神宮の分霊を祠った神社です。
 境内に成田・菅谷両不動尊があり菅谷不動尊はたにし不動尊ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。江戸時代には、ここに高札場(現在の掲示板)がありました。
 また、その他に大杉神社の神輿や大正十二年の関東大震災の記念碑等があります。


いつ頃かわからないが、新しく設置された案内板には、説明が追記されていた。

 神明神社は、宝暦五年(一七五五)に伊勢皇太神宮の分霊を祠った神社です。
 境内に成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。その他に大杉神社の神輿や大正十二年(一九二三)の関東大震災の記念碑などの文化財があります。
神社の前の道は、江戸時代の五街道のひとつである、かつての日光道中です。志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。
また、江戸時代にはここに高札場があり、幕府の掟書や法令などを書いた高札が掲げられていました。

神明神社

f:id:citywalk2020:20211206191011j:plain

御祭神は大日霊命を主祭神として、建御名方命誉田別命配祀神としているようだ。

狛犬が抱えているのはタニシやサザエではなく牡丹の花だそうだ。

台座には大正十一年三月十七日と刻まれているので、1922年のものだ。


社殿横の壁の改築記念碑。

神明神社改築の由来
 当町神明神社は遠く宝暦五年、我々の祖先が、町内氏神として奉祀し、爾来幾星霜を経過し、此の間累代の氏子は宏大無辺なる御神徳に浴し、今日に至るまで、各自安住し得られたことは、偏えに神明御加護の賜と深く感銘いたして居ります。然るに社殿は既に二百二十数年前の建物にて、其後先輩諸氏により折々破損個所の修理を施して参りましたが、偶々第二次世界大戦に遭遇し、加うるに昭和二十二年の大水害の惨禍を受け、為に社殿は極度に大破腐朽し、昭和二十九年に上屋を建て、応急処置を施したものの、其後破損もひどく此の儘では著しく神厳を害するだけでなく誠に恐れ多き極めと存じ、町内氏子の総意により、本殿を建替えることとなりました。亦之と同時に都市社会施設特別整備事業の指定により、埼玉県より三百万円也、幸手町より三十万円也の補助金を頂き、神明会館の新築も併せて行うことに決り、本殿並に集会所の建築費の目標を「当初一千二百万円也とし」、昭和五十一年七月より基金の募金を始めた所、御信仰厚き氏子各位の絶大なる御協力と御賛同を得、約一千七百余万円也の寄附金が集り、昭和五十二年三月には神明会館が落成し、其上拝殿両不動尊及び鳥居参道等の大修理を施すことが出来ましたことは、偏えに神明神社の御神徳は申すに及ばず、町内氏子各位の敬神崇祖と郷土愛に外ならないと、心より感謝申し上げると共に、町内の一大事業を後世に伝える為に社殿の建替えの由来と併せて寄附者の御芳名を記す次第であります。
 昭和五十二年十月吉日建之』  

 

不動尊

昭和14年奉納の「螺不動尊」と刻まれた石碑

f:id:citywalk2020:20211206190951j:plain

そもそも「螺」は「たにし」と読むのか?
訓読みは、「つぶ・ にし・ にな・ ほらがい」で、音読みは「ラ」である。
意味はつぶ、にし、にな、巻貝の総称、また、ほらがい。とある。

やはり、「螺」単独では「たにし」とは読まない。
「たにし」は「田螺」と書くが、「螺」だけだと「にし」になってしまう。
なぜ「螺」を「たにし」と読むようになったのだろうか?

「螺」は巻貝を表す言葉ということで、「螺」がつく巻貝の漢字にどのようなものがあるのか調べてみた。

「螺貝」(つぶがい):食用になる巻貝を表す言葉
「田螺」(たにし):淡水で獲れる巻貝の総称
「拳螺」(さざえ):拳(こぶし)の大きさほどもある巻貝という意味でこの漢字になっている。この「さざえ」には、「栄螺」という漢字もあるが、「拳螺」の方が一般的な表記である。
「法螺」(ほら):「ほら貝」という呼び方が一般的で、貝殻を加工すると笛にもなる大きな巻貝のこと。

 

不動尊
ここは、お寺なのか?
通常、不動尊と言うとお寺なのだが、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の名残なのだろうか?
案内板にも書かれていないし、調べてもよくわからない。

 

「たにし不動尊」の起源は、新潟県新発田市にある菅谷寺(かんこくじ)の菅谷(すがたに)不動尊にあるのではないかと思った。


新潟県守谷市のホームページに以下の記載がある。

菅谷寺は真言宗醍醐(だいご)派の寺で、本尊の菅谷不動尊は特に眼病に霊験あらたかとされており、田螺不動の由来として次のような話が伝えられています。
建長5年(1253)春、落雷により伽藍(がらん)は焼失したが、不動明王像だけは「みたらしの滝」にいるタニシが像の体に張り付いて、まったく焼けていなかった。それ以来、この地のタニシは半身が焦げたように黒くなった。一方人々は、タニシはご本尊を守った明王の使いとして、以後口にしなくなった。

 また、千葉県松戸市にある医王寺(いおうじ)(真言宗豊山派)には、つぎのような話が伝えられている。
寛永年間(1624~1644)、越後の国新発田の菅谷寺から布教のために訪れた僧侶が、本尊の分身を奉納した。ある日、落雷のため不動明王の祠(ほこら)は消失したが、焼け跡から掘り出された不動明王像には無数のタニシが張り付いて、本体は無事であった。それ以来、田螺不動と呼ばれるようになった。盲目の娘がこの不動明王に願をかけたところ、満願の日に不動滝で目を洗うと、水面に不動明王の姿が映るのが見えた。その後娘の目が見えるようになったことから、「姿見不動」とも呼ばれた。

 

埼玉県蓮田市の「はすだ観光協会」のホームページにこの「たにし不動尊」に関する記事があった。

この変った名の不動尊のいわれははっきりしていないが、土地の人々のはなしなどから、次のような話しを聞くことができまとめてみました。

*「幸手市にもこの変わった名の不動尊があり、次のようなことが伝えられています.「安政のころ小林善平なる者が眼病になり苦しんでいました.。ある夜、成田不動尊が夢枕にたち越後の菅谷不動尊の信心を勧めるので,さっそく越後におもむきお参りしたところたちまち眼病が治ったので感激した善平は名主らの協力をえて菅谷不動と成田不動の二つの堂を建立したという。それ以来眼病平癒の不動尊おして近在ばかりでなく遠方からも信者がくるようになった。不動尊の絵馬が奉納されました.火炎のなかにたにしが二つ並んでいる図柄で、この螺のような丈夫な眼をお授けくださいとの願いを象徴したものでした。その後「たにし不動」の名で信仰されました。 たにし不動を信心する人は当時の農村の蛋白源であったたにしを一切口にしなかった時代の神頼みであったかをしる話です。 たにし不動尊の入り口にいぼとり地蔵尊も祭られています。石川家が、この地を支配してきた村おさとして村の人々のまよいや不安を取り除くために気遣いをされていたことを知ることができる資料ではないでしょうか。 たにし不動の裏手が江ヶ崎城跡になります。現在は住宅地として開発されています。お店の右の路地を入って十字路のところが館のお堀にかかる二の門にあたるところです。道を左にとり坂を下ったところが江戸時代から明治の初めに高札場があったところになります。十字路を右手に曲がると保福寺に行きます。 

 

左から水神宮、庚申供養塔、辨財天

f:id:citywalk2020:20211206191002j:plain

 

いくつか疑問が残ったままになってしまったので、更に調査が必要だ。