歩・探・見・感

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旧町名 新宿区四谷左門町

灼熱地獄のような中、探索は続く。

新宿区左門町にて旧町名「四谷左門町」を発見する。

 

発見日  2022年6月25日

発見場所 東京都新宿区左門町

歴史

1872(明治5)年
忍原横町西側の大縄地武家地を併合して起立。
同年末
「四谷」の冠称がはずれ、左門町となる。

1878(明治11)年11月2日
東京府四谷区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市四谷区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都四谷区に所属。その際、四谷平長町を編入

1947(昭和22)年3月15日
東京都新宿区に所属。

 

1872(明治5)年に「四谷」の冠称が外れているはずだが、なぜ「四谷左門町」になっているのかはわからない。

 

地名の由来

この地に江戸幕府の先手組組頭・諏訪左門の組屋敷があったことに因んでいる。

 

四谷第二小学校跡 

 

新宿通りから向かうと、右側に神社が、左側に寺がはす向かいに建っている。
神社は田宮伊右衛門の妻お岩を祀った於岩稲荷神社の旧地で、もとは田宮家の屋敷内にあった邸内社の跡地とされる。田宮神社と称するようになったのは明治5年からで、その後同12年に神社は火災で焼失し、現在の中央区新川に移転した。一方で、昭和27年になると於岩稲荷と称する陽運寺が創建され、これを知った田宮神社が再び旧地に戻ってきたことから、現在のような姿となった。

ちなみに、お岩さんのお墓は、西巣鴨妙行寺にある。

 

於岩稲荷田宮神社

田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから『お岩さんの稲荷』として次第に人々の信仰を集めたようです。
鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談』が文政八年(1825)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲が実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治12年(1879)に火事で焼失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和6年(1931)に指定されました。戦後、昭和27年(1952)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。

 

本堂の軒先には「お岩さん」について書かれた資料や新聞記事などがずらりと掲示されている。

怖いことが書いてあると思い、眠れなくなるとイヤなので、読まなかった。

 

陽運寺

こちらは於岩稲荷霊神ののぼりが建っている。

江戸時代、文政八年七月 歌舞伎作者 四世鶴屋南北作 「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。
この地にあったお岩様の霊堂が戦災に遭ったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し、当寺が開山されました。
境内にある泰山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ、陽運寺の起源とされています。
薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史のある建物です。
当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると、多くの参拝者の信仰を集めています。境肉にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。
平成二十五年癸巳年十月吉辰 於岩稲荷 長照山 陽運寺

 

玉垣には四谷大木戸・荒木町にあった数々の料亭の名が今も残っている。

 

ここは夏にはかき氷屋さんに変身するようだ。

暑かったので、店は大賑わいだった。

高いなと思うが、こんなものだろうか?

2020年6月に境内にお寺カフェ「うくらいま食堂」がオープンしたそうだ。

 

由来1

元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この際、本部に祀った「お岩尊」という小祠が大きくなったのが陽雲寺の成り立ちとのこと。

由来2

「戦後のどさくさに紛れて、この場所にお寺を建て、お岩さんと関係あると主張したらしい」との噂もある。

神社か寺かわからない造りになっているし、練馬区春日町に別院やカフェを作るなど商売上手なところから、由来2に一票かな。

 

旧町名の話題なのに、神社仏閣の話題になってしまった。

別に「陽運寺」を批判しているわけではない。

どちらにしても良妻だった「お岩さん」祀る神社と寺。仲良くやってほしい。