歩・探・見・感

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稗蔵( ひえぐら ) 東京都西東京市

田無駅の北口から三鷹市の「三鷹電車庫跨線橋」に向かう途中、「ふれあいのこみち」と書かれた路地があり、近道かなと思い、入って行くことにした。

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※「ふれあいのこみち」青梅街道の南側を流れていた田無用水跡

 

少し行くと、駐車場の片隅に何かあるので近寄ってみた。

近寄ってみただと?
あー、また寄り道だ。
急いでいるのではないか?
日暮れまでに間に合うのか?

すべて独り言だ。

 

発見日  2021年12月11日

発見場所 東京都西東京市田無町2丁目

 

車が駐車している奥に古そうな建物が見えた。

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稗蔵

市指定第4号
天保9年(1838年)、田無村名主下田半兵衛富永は、飢饉に備えて稗を貯える方法を代官に願い出て、自宅の庭に五百石入りの稗倉1棟を自費で建てました。貯穀は名主ほか主な百姓39人で百両を出金し、それを貸し付けた利子で年々稗を貯えました。干支にちなみ12室に分けられており、年々一室分を詰め替え、古穀を貧困者や罹災者等に分配しました。文久3年(1863年)に一度建て替えられ、後に明治6年(1873年)に用済みとなり、分割されたその一部がこの稗倉です。
指定年月:昭和42年2月 

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稗蔵の案内板

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養老田碑
市指定第7号

安政年間(1854年~1859年)建立。江戸時代後期の凶作相次ぐ時代に、村内の貧困者や老人を保護したことなど、田無村名主下田半兵衛富宅の行った善政を、子孫に伝えるための碑文が刻まれており、当時の民政資料として貴重です。碑文は幕末の著名な儒学者安井息軒、揮毫は田無村の医者であった賀陽 濟の筆によります。
指定年月:昭和45年7月 

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養老田碑の案内板

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江戸時代末期のものにしては、きれいに整備されているなと思って調べてみたら、以下のように修復されていた。

修復を担当した「一級建築士事務所スタジオ宙(みゅう)」や「平井園」のホームページを参照させていただいた。

修復の作業内容は以下だったそうだ。

稗蔵の傾きや、伸びきった植栽を整えるために吊家(土台の下に井桁を組んでレッカーで引き上げる)を行い、蔵を移動。
蔵を動かしたら下には傾きを調整するために置いたと思われる石臼などが出てきたそうだ。
石臼等を移動。
地盤改良を行う。
土地の傾きを直す。
倉を以前の位置よりも少し手前に動かし、倉の後ろの動線を確保。
植栽を新たに植え直す。
倉の下にあった石臼を飛び石にする。
倉周辺に伊勢砂利を敷く。
農具達をレイアウトする。

下田半兵衛は「槐宇道人」という雅号があり、ゆかりの槐(エンジュ)の木が石碑の傍に植えられた。

そして、稗蔵の修復が完了したのは、2016年5月12日だったとある。

 

総持寺仁王門を入った左手の「妙見堂」に安政6年(1859)に制作された田無村名主・下田半兵衛富宅の木造が安置されている。

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「下田半兵衛の家」が総持寺を出てすぐ先の路地を左に入った奥に現存している。安政4年(1857年)に建てられた西東京市最古の建物で入母屋造り三層の茅葺(現在は銅板葺に改築)だったそうだ。
下田家は明治天皇が昼食に立ち寄った館で、明治天皇がいらっしゃるのでトイレを新築したというエピソードがある。

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稗蔵の左側が正一位野分初稲荷社

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正一位野分初稲荷社の案内板

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こちらに鎮座している正一位野分初稲荷神社の情報は見当たらなかったが、田無神社の野分初稲荷神社の縁起に、以下の記載があった。

野分初稲荷神社は田無神社本殿右横に鎮座されています。その縁起をご説明いたします。室町時代の終りの頃にこの地に白い狐が現れました。村人たちは大変珍しがりその話題で持ちきりになります。若い衆が集まり話し合い、捕まえようという事になりました。若い衆は銅鑼や太鼓を叩いて追い込みました。狐は素早く逃げましたが段々と追い込まれてゆきます。もう少しで捕まえられるという時になると決まって大風が吹き、嵐がやってきました。とうとう白い狐は捕まえられる事無く姿を消してしまいました。そして月日が経ち白い狐が人々から忘れ去られようとし六十年くらいたった頃再び白い狐が現れました。すると若い衆は再び捕まえよう言い出します。六十年前の出来事を知っている年寄り方は止めましたが血気盛んな若者は話を聞きません。再び狐狩が始まりました。若い衆は包囲を段々と狭めて追い詰めて行きました。その際にも大風が吹き嵐がやってきました。若い衆はそれでも追い込み続けますと狐は堪らず穴に逃げ込んでしまいました。不思議な事に穴に逃げ込んだまま数日経っても出てきません。若い衆は穴の前で待ちましたがとうとう出て来ないまま消えた様に居なくなりました。村人等は不思議がり「お稲荷様の化身じゃないだろうか?」と思いました。そして庄屋様の下田さんが江戸から神職を呼び穴の前でお稲荷様として鎮座する様に祭祀を執り行いました。祭儀が終わったところ、それまで晴天だったのが急に黒い雲がもくもくと現れ風が吹き始めました。下田さんは「まだ何かご不満があるのではないでしょうか?」と神職に聞きますと「それでは正一位の位をつけたらどうでしょう。」とのお答え。穴に向かって「正一位をお付けします」と言うと風は止み黒い雲も無くなりました。『野分』とは台風の古称です。嵐を起こす稲荷様という意味で『野分初稲荷』と名付けられました。この穴の場所が現在の下田家にある野分初稲荷神社であると伝わっています。ここから御分霊を田無神社境内末社に御遷座致しました。現在は本殿右横に御鎮座していますが、元々は現在の東側参道のところに御鎮座していました。平成に入りお社の御移動と共に遷座祭を執り行いましたがその際にも御神体の御移動の時に急に大風が吹き大雨が降り神職は全員ずぶ濡れになって御奉仕しました。

 

上記に「下田家にある野分初稲荷神社」と記載があるので、この神社がそれにあたるのだろう。

 

2021/12/14追記
2021/12/13再訪し、ふれあいのこみち、下田半兵衛の家、総持寺に設置されている「下田半兵衛富宅の木造」の案内板の写真を撮影し、追加した。