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東上稲荷道と志木駅の歴史

志木駅から歩いてくると気が付きにくいが、志木駅に向って歩いていると、携帯電話ショップの横に電柱に隠れるようにしてある、以前通った時から気になっていた碑があった。

訪問日 2023年7月22、25日

裏面

見回しても近くには神社はない。

調べてみよう。

東上稲荷道 | Public Management Revisited ЦЕНТР - 楽天ブログを参照させていただいた。

この「東上稲荷道」の碑は、東武東上線にゆかりの深い「東上稲荷神社」の参道に建てられたものだそうだ。
東上線が開通したのは、大正3年のことで、その年の5月1日に第1号の汽車が池袋~田面沢(現在の川越市)間の線路を走った。
この東上線を志木へ誘致する運動の中心的人物がこの「東上稲荷神社」を祀った井下田慶十郎(いげたけいじゅうろう)氏だ。
慶十郎氏は、慶応元年(1865)に引又宿(現在の志木市本町付近)に生まれた。
井下田家は、明暦2年(1656)より引又河岸の回漕問屋を営んでいたが、明治14年に若干16歳で家督を継いだ慶十郎氏は、これからは舟運よりも陸上交通の方が社会の繁栄をもたらすと考え、当初の計画では朝霞から新座の大和田の方に行くはずであった東上線のルートを志木を通るルートへと変更させる運動に私財をなげうって奔走した。
この時、この誘致運動の成功を祈願して自宅に祀ったのが「東上稲荷神社」で、無事念願が叶った後は、志木駅脇に遷座して「正一位東上稲荷大明神」として祀ったとのことだ。
「東上稲荷神社」は、現在、井下田家の敷地内に遷座されているとのこと。(非公開)

 

ちなみに、志木駅志木市にあるのではなく、新座市東北二丁目8-1にある。

 

駅前広場のスタバ横に植栽に埋もれるように井下田慶十郎氏に関する碑がある。

東上鉄道志木駅開設八十六年
交通庵東上翁井下田慶十郎碑

大正三年五月一日に開通した東上鉄道(現東武東上線)は、当初川越街道沿いに敷設される計画だったが、これでは志木町の衰退は必至であるとの危機感を募らせた廻漕店主井下田慶十郎は、町内有志を糾合して大運動を起こすと同時に、親戚で同業の福岡村星野仙蔵代議士に協力を求め、相謀り、私財を抛ち寝食を忘れ、鉄道誘致のためにまさに東奔西走、死力を尽くした。
 その懸命の努力が実を結び、川越街道野火止交差点から約二キロ離れたほぼ現在地に志木の名を冠した新駅が設置された。なお、開通後、京都伏見稲荷大社から分霊して正一位東上稲荷神社を創建するなど、終生、東上線の躍進と町民の幸福を願い続ける日々を送った。生前は交通庵東上翁と号し、昭和六年八月の死後は菩提寺から功績を称揚され、交通院慶運東上居士の戒名を与えられた。
慶十郎の遺志を継承した養嗣子四郎が町長在職時の昭和二十九年、東上線開通四十周年記念式典で提案して以来、市民長年の悲願だった駅前整備拡張が、実に四十六年を経た今日、細田市長主導のもと、志木駅東口開発研究会、東武鉄道、地権者や多くの関係者の協力により、志木駅東口の名も新たにその偉容を市民の前に現すに至ったことは、誠に感慨深いものがある。
駅前整備完成に際し、先駆者井下田慶十郎の功績を不朽に伝えようとするものである。

平成十二年五月一日

志木市郷土研究会会長 神山健吉 撰文

 

志木駅東口交番横には「志木駅舎の由来」の碑がある。

東武東上線は、大正三年五月一日に池袋~川越間三十三・五キロメートルで営業が開始され、当時駅は、池袋、下板橋、成増、膝折(朝霞)、志木、鶴瀬、上福岡、川越町、田面沢の九か所であった。それまでの物流の中心は新河岸川の舟運であり、その後、鉄道輸送に変わっていくことになるが、当時、東上線のルート決定に尽力したのは、志木では、志木河岸の船問屋井下田回漕店の当主らと地元の住民であり、上福岡、川越でも、同様舟運の関係者が積極的に鉄道敷設に関わった結果、当初計画では、旧川越街道沿いに朝霞から新座、三芳、大井を通り川越に至るルートであったものが、朝霞から志木、鶴瀬、上福岡を通るものに変更され、志木駅が誕生した。
開業当時はホームも一か所で、改札口からホームには線路を横断して行ったが、輸送の拡大に伴う軌道数の増加及び車両の増結に伴いこ線橋 (写真下)が設置され、昭和四十五年三月一日には、現在の新こ線橋が従来のこ線橋から七十五メートル池袋寄りに完成し橋上駅舎となったことから、それまで、南口、東口(北口)の二か所に分かれていた改札口が橋上一か所にまとまり、こ線橋部分は一般の人も自由に通行できるようになった。
写真の志木駅舎は、大正三年の開業当初から改札口が橋上駅舎に移った昭和四十五年まで、五十六年間ここ記念碑付近に位置したものです。

※田面沢は現在の川越市駅

 

再開発事業寄与者名

この中に井下田家の方々も載っていた。


志木駅東口駅前広場の舗装の一部に、しき郷土かるたが絵タイルとして敷設されている。

その中にこれがあった。

井下田翁らが 鉄道通して まち栄え

 

志木市郷土資料館に足を延ばした。

志木駅や機関車関連の展示物があった。

ヘッドマーク
列車の愛称名が記されたプレートのことで最前車に取り付けられたものです。昭和20~40年代の行楽列車にいくつかの愛称名がつ けられ利用者に親しまれました。
これはその現物で、それぞれ次のような特徴がありました。
ブルーバード:貸切の臨時特急として運転されました。 路線は種々ありましたが、中には池袋~川越~大宮~船橋のように他社の路線に乗り入れて運転される列車もあったようです。
ゆめじ:池袋~寄居間を土曜日の午後に運転しました。当時は土曜半日出勤が多く、午後に寄居から八塩温泉や伊香保温泉行きのバスに連絡していたようです。

 

入間川を渡る8000系東武鉄道 昭和41年頃

 

大正11年(1922)頃東上線で使われていた

 

東上線志木駅開通風景

 

昭和29年5月の志木駅ホーム

 

東上鐵道御案内

左端に「開業当日より1週間内 汽車半ちん」とある。

この路線図にはまだ東京駅はない。後に、現在の東京駅が完成したのは大正三年十二月のことである。また、現在の池袋駅を通過する「山手線」が環状運転を開始したのは大正十四年だった。

大正4年志木駅発車時刻表

ここに井下田運送店の名前を見つけた。