歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

新大橋一丁目安宅丸由来碑と新一公園と御船蔵跡

外から白鳥の家族の置物が見えたので立ち寄ってみた。

 

結構リアルな象の椅子?もあった。

 

公園に設置されているこのような置物や遊具が大好きで、つい写真を撮ってしまう。

 

発見日  2023年4月22日

発見場所 東京都江東区新大橋一丁目 

 

当然のことながら、これら置物がメインではない。

白鳥の家族の隣に碑が設置されていた。

 

〇新大橋一丁目安宅丸由来

     細田隆善 書

 

裏面

新大橋一丁目と安宅丸の由来

新大橋一丁目の町名は住居表示町名変更により昭和四十六年四月一日深川新大橋一丁目改めたものです 同町は関東大震災後の区画整理により昭和九年六月十四日従来の深川宗町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です 新大橋一丁目一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのためこの付近は昔から御船蔵と称されてきました。ここには幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので明治二年七月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また深川新安宅町は隅田川の川深いの浅瀬を埋めたてて明治三十八年八月二十四日この町名をつけたものです 安宅丸は北条氏が造船したものでその動力は四百人の水夫が二百本のオールを交代で漕ぎ米四千石(一万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船であったといわれています のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永十年(一六三三年)江戸に回航しこの御船蔵につながれました 延宝七年(一六七九年)江戸絵図は安宅丸が画かれています そして巨艦安宅丸は補修管理が困難となり天和二年(一六八二年)解体されました 幕末の頃には船蔵に三十八隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり一隻は政府に他は払いさげになったと記されています この付近は江戸時代初期から開発され江東区においてもつとも古い町の一つであります
     江東史談会 会長 細田隆善記
 新一公園開園を記念してこの町の由来を記す
 昭和四十八年十月吉日
   新大橋一丁目町会 町会長 坂田清

 

江戸絵図 延宝七年(一六七九年)

この地図の中央やや右上に「御船蔵」が隅田川沿いにあり、その左下に「あたけ丸」と記されているのだが、上の写真ではわかりにくい。

 

八名川公園に別な史跡を紹介しているものがあり、そこに古地図があったので載せておこう。

この地図では「御舟蔵」と書かれている。

 

〇御船蔵跡 墨田区千歳1-5

この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍船「安宅丸」は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。

 

〇御船蔵跡 江東区新大橋1-2(新大橋東詰公園)

正面

右側面

左側面

裏面

はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
  昭和三十三年十月一日  江東区第十号

 

〇大はしあたけの夕立 江東区新大橋1-2

新大橋東詰公園の公衆トイレ外壁

新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。

○安宅丸稲荷 江東区新大橋2-5

高い塀により外からは全く見えない。

周りに人がいないことを確認してから、背伸びして撮ってみた。

ピンク色の建物の敷地内に鎮座していた。

安宅丸が解体され埋められた地に御船塚が設けられ、その地に祀られたのが安宅丸稲荷とのこと。
上の御船蔵跡の説明の中に「供養塔が建てられた。」とある。
もしかしたら、元はそのあたりにあり、ここに移転されたのだろうか?