歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 埼玉県北葛飾郡吉川町大字吉川

越谷市から吉川市へ向かうため、吉川橋を渡った。

吉川橋は埼玉県吉川市大字平沼と越谷市東町の間を流れる中川に架かる埼玉県道52号越谷流山線の道路橋。

吉川橋の欄干に昔の橋の絵が飾ってあったので、紹介する。

徳江橋

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古利根川(中川)の渡河は従来渡船に依存していたが、交通量が増加したため1878年明治8年)3月10日、葛飾郡平沼村の農民である徳江忠次郎により、越ヶ谷吉川道の里道の渡河地点に木造橋の架橋の許可を県に出願、同年5月14日に内務卿より架橋の許可が下り、私費を投じて同年5月28日に着工し、同年8月6日竣工。架設者の姓である「徳江」に因んで徳江橋と名付けられた。

 

古利根橋

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橋の修築は1887年(明治20年)6月26日に着手され、同年10月13日に完了した。この橋は1917年(大正6年)に県に移管され、古利根橋と名を改めている。1918年(大正7年)には木橋から土橋に改築されている。

 

1933年(昭和8年)3月 鉄筋コンクリート製の吉川橋が完成。

 

築造から90年経ち著しく老朽化していたことから廃止撤去され、2014年頃から同じ場所に新橋の架け替え工事が実施されている。

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新橋は2021年(令和3年)3月26日に暫定完成(2車線)している。 
4車線で正式に完成するのは2022年春頃の予定のようだ。

 

橋全体の写真は、車が渋滞していたので、撮らなかった。
ブログに載せるなら遠くからでも撮っておけばよかった。

 

中川に太陽が輝いている。

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国土交通省の注意書き看板

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河童と少年の絵だが、微妙だ。

河童がおぼれるだろうか?

怖い顔した河童が川から顔だけ出している絵もあるようだが、いつか、河原に行く機会があったら、探してみよう。

少年の顔、というか全体的に絵が下手過ぎではないか?
誰かに追いかけられているようにも見える。河童にでも追いかけられているのか?

 

発見日  2022年1月10日

発見場所 埼玉県吉川市吉川1丁目

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小字付のものは見つからず、これで勘弁していただこう。

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
北葛飾郡吉川村・旭村・三輪野江村がおかれる。

1915年(大正4年)11月1日
吉川村が町制施行し(旧)吉川町となる。

1955年(昭和30年)3月1日
吉川町・旭村・三輪野江村が合併し(新)吉川町となる。

1996年(平成8年)4月1日
吉川町が市制施行し吉川市となる。

 

地名の由来

吉川は吉河とも書き、古くは吉川郷 風早庄 二郷半領に属し、「吾妻鏡」に載る武蔵武士「吉川三郎」の在所ともいわれる。埼玉郡大口村(さいたま市岩槻区)延文6(1361)年の市の祭文に下総国下河辺庄吉川市とあるのは当初のことで、古くから市が開かれていたことがわかる。

吉川の名義は芦川の意で、昔この付近の低湿地を流れる川にアシが多く生えていたためである。芦の訓はアシであるから悪(アシ)と聞こえるので、芦をヨシともいい、「芦」に当てるに「吉」の文字を持ってしたものと思える。

 

吉川市は「なまずの里」と言われている。(吉川市ホームぺージより)
吉川は、江戸川・中川に挟まれた地形で、江戸に物資を運ぶ集積地として、当時から料亭や旅館が多く、定期的に市(いち)も開催されました。
 そのような地理的な要因もあり、吉川では、昔から川魚料理の食文化が根付き、「吉川に来て、なまず・うなぎ食わずなかれ」と称され、中でも「なまず」は貴重なタンパク源として多くの家庭で親しまれていました。
 しかしながら、身近な存在であった「なまず」も、都市化により次第に数が減少してしまいました。
 そこで近年、自然の大切さが叫ばれる中で、かつての環境が見直され、古くから人々になじみがあり、また、「なまず」を使った料理が全国的にも珍しいということもあり、「なまず」を市のシンボルにまちづくりを進めていこうという気運が高まりました。

 

JR武蔵野線吉川駅南口ロータリーにある黄金に輝くなまずモニュメント

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銅板の上を漆で焼き付け塗装し、金箔を張った巨大な親子なまず。 
なまず 4.8m
なまず 1.4m

 

デザインマンホール蓋

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いつからかわからないが、このようなデザイン化されたマンホールをよく見かけるようになった。
カラーのものは、見かけるたび撮るようにしており、マンホールカードも何枚か持っている。

 

吉川市の老舗 創業400余年の「糀家」の外観

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ホームページより
江戸の時代、吉川には物資の倉庫が立ち並び、人々が集まる交通の要衝として栄え、料理屋や旅館などが数多く軒を連ねておりました。
私ども「糀家」も当時のにぎわいを知るひとつ。江戸開幕時の創業以来400余年の時を重ねてまいりました。
近藤勇勝海舟板垣退助をはじめ歴史に名を残す人々にも、当店の味わいをお楽しみいただいたと言われております。
雪見灯籠や赤玉石、草履脱ぎ石など当時のままに残した庭園や、今ではなかなか食する機会のない伝統の郷土料理などをお楽しみいただき、歴史の余韻や、ゆったりとした時間を感じていただければ幸いです。 

 

1階の屋根の左側に、鬼瓦ならぬ「鯉瓦」が設置されている。

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右端にも何かあったが、看板に隠れていて、撮るのを忘れた。

 

鬼瓦だらけのお屋敷があった。

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この写真に見えるだけで五つある。数えていないが、1階と2階の屋根の四方合わせると20以上あるのではないか。

 

全部同じ顔をしているのかわからないが、そのうちのひとつの鬼瓦を拡大して撮ったもの。

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立派な鬼瓦だ。

 

鬼瓦とは、屋根の棟(大棟 隅棟 降り棟など)の端に取り付けられる装飾瓦、役瓦のことをいい、鬼面の有無にはかかわない。

鬼瓦の歴史

日本で最古の鬼瓦はおよそ1400年前の飛鳥時代で、瓦笵(型抜きの型)のもでは、奥山久米寺跡から出土したもので、手彫りのものでは、法隆寺の前身である斑鳩寺の若草伽藍から出土したものとされている。どちらも蓮の花をモチーフとした蓮弁であり、仏教とともに伝わったものと考えられている。
飛鳥時代から奈良時代前期の鬼瓦は蓮華紋が主体だったが、奈良時代後期から平安時代になると古代獣鬼面と呼ばれる鬼瓦が登場し始める。鋭い牙を持ち大きく見開いた目は、魔除けとしての意味合いが強く、非常に似たものがアジア、東南アジアを中心に多く見られる。一般的な鬼の容姿は、平安時代に確立していく。
鎌倉時代に入ると、それまで浮き彫り(レリーフ)調であったものから、徐々に立体的になっていき、室町、安土桃山時代になるとよりリアルさを増し、いわゆる戦国の頃は、非常に迫力のある鬼瓦が作られるようになる。
江戸時代になると、江戸の町を火災から守るために一般の民家や商家などにも屋根瓦が使用されるようになり、鬼瓦の装飾も様々なデザインが生まれ発達し、現在の鬼瓦の原型となっている。

 

また探索記録的な記事になってしまった。
今回は旧町名だけだと地味すぎてつまらないし、良しとしよう。