川崎駅から東海道を歩いていたら、いつのまにか横浜市に来ていた。
横浜市まで来るつもりはなかったのだが、この橋と雲のコラボに見惚れてしまったので、良しとすることにしよう。
訪問日 2023年11月23日
橋近くの公園にバクの案内板というものがあった。
江戸日本橋から来た場合、最初に渡る橋であった鶴見川橋(当時の名称は「鶴見橋」でした。)は、「東海道五十三次」や 「江戸名所図会」に描かれ、ここからの眺めは海原や富士山が臨め、茶屋などが 多く賑わっていたといいます。
・・・旧東海道のルート。
ここに書かれている市場一里塚と箱根駅伝記念像にも訪れたが、それは別な機会で。
案内板
「鶴見川橋」は徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601年)ごろ架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史をもっています。大正末期頃までは 「鶴見橋」の名前で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。(多摩川は元禄元年の大洪水以降 “渡し舟”でした。)橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根山が見えたという風光明媚な場所でありました。
暴れ川と呼ばれた鶴見川は、いくたびも洪水をくり返し、橋は流され架け替えられてきました。
古くからの歴史に育まれた鶴見川橋は、平成8年に鶴見川をひとまたぎするアーチ橋として生まれ変わりました。
江戸名所図絵 「鶴見橋」 (市民グラフヨコハマ101号より)
平成10年8月 鶴見区役所 鶴見歴史の会
『鶴見橋』界わいの情景
鶴見橋 (現、鶴見川橋)からの風光明媚な眺めや、市場・鶴見界わいの様子を記した紀行文、歌、俳句、絵などが数多く残されています。 江戸時代の書物や歌から、当時の 風景を抜粋してみますと、
右のかなた、はるかに田の面を打ちこえて山々つられり。
左は青海原にて、いと景よろし・・・・。
「甲申旅日記」 下田奉行・小笠原 長保
この橋から見えた富士や箱根の山々や、海原に浮かぶ帆かけ舟などは、多くの旅人や文人たちの心をとらえました。
うち見れば碁盤のような梨の棚、白勝ちに咲く花のひと村
蜀山人(大田 南畝)
界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店では鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。また、橋のたもとには当地の産物などが運ばれた「市場河岸」があったことを伝える風景画も残されています。
平成10年8月 鶴見区役所 鶴見歴史の会
初代 広重
「五十三次名所図絵 川崎 生麦の里」
(神奈川県立歴史博物館蔵)
川沿いの遊歩道から