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東京の木製仁丹町名表示板について(2)

東京の木製仁丹町名表示板について(1)に続いて、今回は月別の製作枚数、費用、作業日数、設置枚数等について分析してみたい。

 

下記の表は「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」の月別の製作枚数、費用、作業日数、設置枚数等をExcelに入力したもの。

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そうしたら、いくつか差異があることが分かった。
分かったからなんだというわけでもないが、差異があるものは、原因を調べてみた。

それでは、項目ごとに確認してみよう。

①製作枚数

合計1は「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」をそのまま書き写したもの。
合計2は再計算してみたもの。
製作枚数合計は92,178枚となっているが、計算してみると101,108枚となった。
製作枚数に差異が8,930ある。
差異は何かなと調べてみたところ、*を含んでいない枚数だった。
差異の明細は分かったが、これが何を意味しているのかは不明。

 

②単価

単価の要素は材料費(木材、ペンキ)、工賃(職人)だろうか?

当時の貨幣の単位は1円=100銭=1000厘だったそうだ。

元々は「替」と書いてあるように読める。
「替」の文字の意味を調べたが、単価の意味を持つものなのか分からなかった。

製作費÷製作枚数で計算してみると単価になるので、ここでは単価と表示している。
そうすると単価の435は435厘だということか。

単価は大正8年8月から450厘と15厘上昇している。
大正9年4月は450厘と285厘の2種類があり、それから大正9年8月までは285厘となっている。
大正9年4月から最終の8月までだが285厘と450厘から165厘安くなっている理由は何だろう?
製作方法が変わったのだろうか?

1枚当たりの単価が435厘から450厘ということは、当時の1円が今の4,000円とした場合1,740円から1,800円になる。

 

③費用

雑費は釘代、荷作費、運送費、その他となっている。
製作枚数と雑費は比例していないようである。
釘代、荷作費はほぼ固定だろうから、運賃の違いだろうか?
東京倉庫は東京市神田区錦町にあったらしい。
15区内ではなく、その月は郡部に送付するのものが多く、運賃がかかったのだろうか?

神田区錦町は現在、千代田区神田錦町1~3丁目となっている。
 森下仁丹の倉庫は神田錦町には現存しておらず、東京オフィスが千代田区神田富山町にある。

 

「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」には以下の記載があるようである。

「此外実地ニ付予備調査等ニ延人員約五百人ヲ要セリ 掲示全部本舗ノ雇員ヲ以テ従事セシメシ為此分ニ対スル金額ハ算出困難ナリ」

人件費は外注ではなく社員が行ったので、ここには含まれていないようだ。

森下仁丹自体で算出できなかったものが、資料もない自分が算出できるのかといえば、当然、正確な金額は算出することはできない。
算出したから何の意味があるのかというと、単なる自分の興味本位以上のなにものでもない。
ただ算出してみたくなっただけである。

仮定ばっかりになるが、人件費を算出してみよう。

森下仁丹80年史』によれば「販売3年目の明治40年に開設された東京倉庫の仕事のほとんどは宣伝広告の仕事であり、特に看板の取付けという業務であった。」とある。

仮定①東京倉庫に在籍している社員の仕事はほとんどは宣伝広告の仕事である。
仮定②大正時代の小学校の教員の初任給は50円程度だといわれている。
仮定③作業人員合計3960÷作業日数合計411=9.6となるので、宣伝広告の仕事に従事していた人数を10名とする。
仮定④看板設置期間は「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」に記載の通り大正7年12月から大正9年8月までの21ヶ月としている。

何の根拠もないが、計算してみた。

50円×10名×21ヶ月=10,500円

大正時代の1円が現在のおよそ4,000円にあたるらしいので、計算してみよう。
10,500×4,000=42,000,000円

こんなものだろうか?
結構いい線いっているような気がする。
知らんけど・・・。

 

④作業日数

作業日数の合計の差異2は、計算誤りか?
入力ミスかと思い、何回か確認したが、409が正しいようだ。

作業日数の最大月は大正8年4月の27日だった。
この頃は当然週休2日制ではなく、繁忙期は休みもあまり取れなかったことがわかる。

 

⑤作業人員

1日あたりの作業人員を計算してみた。

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作業人員の最大月は大正8年4月の358人だった。
1日あたりの作業人員が多かったのは大正8年7月と大正8年10月の14人だった。

真夏の暑さや真冬の寒さは大変だっただろう。

台風や降雪もあったかもしれない。

そこで、設置期間の大正時代の気温を調べてみた。

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夏の気温は最高でも33.4℃と今より低いようだが、暑いのには変わりがない。


⑥設置枚数

「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」には合計が90,440枚と記載されているが、再計算したところ、97,568枚だった。
入力ミスかと思い、何回か確認したが、97,568枚が正しいようだ。
差異は7,128枚である。
差異は何かなと調べてみたが、わからなかった。

 

1日当たり(※1)と1人当たり(※2)の設置枚数を計算したものである。

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1日当たりの設置枚数で最大なのは最終月の大正9年10月の609枚だった。
1人当たりの設置枚数で最大なのは同じく最終月の大正9年10月の107枚だった。

よくあることだろうけど、何故最終月に集中してしまったのだろうか?
計画の最後が大正9年10月というのは何か意味があったのだろうか?
森下仁丹のホームページの歴史博物館に掲載されている年表を見てみたが、大正7年から9年にかけてのトピックスはなにも記載がなかった。

 

ここまで、2回に分けて素人なりに分析を試みてみたが、いかがだっただろうか?

さて、次回は以前も「旧町名 本郷區根津須賀町」で東京都に残る仁丹と思われる木製町名表示板を紹介したことがあるが、これを再構成し、パワーアップして再紹介しよう。

乞うご期待!