歩・探・見・感

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東京都指定有形文化財 旧本田家住宅 東京都国立市

甲州街道沿いに作業中の建物が見えた。

 

発見日  2022年4月25日

発見場所 東京都国立市谷保

 

近寄ってみると、解体中の旧本田家住宅だった。

立ち寄った「くにたち郷土文化館」にここの資料があり、東京都に現存する民家の中では最古級のものということなので、訪問してみようと思っていたのだった。

 

解体中だとは知らなかった。


表門(薬医門)

国立市ホームページより

築様式から幕末に建造されたと推定されており、屋根は切妻造銅板葺です。
馬に乗ったまま門をくぐれたとのことから、本田家では「オウマモン」と呼ばれ、近隣では「本田の門」とも呼ばれてきました。
昭和7(1932)年に甲州街道の拡幅工事に伴い、甲州街道沿い南向き敷地中央から現在の位置である敷地東南隅に移動しています。
戦後、屋根の茅葺の上にトタンをかけ、後に銅板に取り換える部分的修理はされましたが、大きな改築なく建築当時の姿を残し保存活用されてきました。

 

表門(薬医門)の奥に主屋が見える。

国立市ホームページより

旧本田家住宅は、江戸時代期より国立市谷保に建つ由緒ある建造物です。
建造年代は特定されていませんが、室内に残る家作の安隠を祈願した祈祷札に享保16(1731)年とあり、それ以前に建てられたと考えられています。
主屋の建築当初の間取りは、食違六間型で六部屋から成り、都内においてこの形の遺構としては最古級のもので、屋根は入母屋造りに茅で葺かれ、現在は鉄板で覆われています。
江戸時代後期にはチャシツやサンジョウマが増築されるなど、歴代の本田家当主に守られながら経年してきました。昭和に入ってからは、出入りの大工と家屋の保存を相談しながら住み継がれ、今日を迎えています。

 

右側から見た解体現場

作業中の人がいるのだが、写真ではわかりづらい。

 

左側から見た解体現場

足場だらけだ。

 

工事のお知らせ等が貼ってあった。

 

工事のお知らせの工事概要には「旧本田家住宅の復元工事を行うために主屋を手作業にて丁寧に解体する。」と記載されていた。

平成23年10月28日国登録有形文化財(建造物)に指定されたが、令和2年3月16日に都指定文化財指定により解除されたそうだ。

 

市報くにたち(東京都国立市

くにたちの教育 令和3年12月5日号 第165号

旧本田家住宅は江戸時代から約300年間、甲州街道に面して建ち、谷保村の元名主・本田家の暮らしを今に伝える由緒ある民家です(谷保5122-4)。
旧本田家住宅主屋は3本の大黒柱や喰違い六間取りの平面形など、江戸時代中期の古い形式を残しています。享保16(1731)年の銘がある祈祷札が発見されたことから、少なくてもこれ以前に建てられたと考えられ、東京都に現存する民家の中では最古級のものです。また、家格の変化や活発な文化活動に応じて、接客空間が拡張され、意匠が整えられてきたことなど、民家建築の変遷の過程を示しており、歴史的・学術的に価値が高いとされています。
表門は江戸末期の建築とみられ、大きく構える敷地には庭が広がり、主屋とともに名主家らしい屋敷構えを今に伝えています。
旧本田家住宅は平成28(2016)年にご当主の「貴重な文化財を後世に伝えて欲しい」というご意向のもと、土地や所蔵資料とともに国立市に寄贈されました。教育委員会では、旧本田家住宅を後世に残し、また活用していくため、傷みの大きい主屋の解体復元工事などを行うこととしました。今年度からは、主屋を解体しながら詳細な調査を行い、復元工事に向けての実施設計を進めています。

 

建物の痛みが激しいことから、次のスケジュールで解体・復元事業を行っているそうだ。
【スケジュール】(変更する可能性がある。)
2020(令和2)年度  基本設計
2021(令和3)年度  解体工事、実施設計
2021(令和4)年度  実施設計
2022(令和5)から2024(令和7)年度  復元工事

 

本田家とは(国立市ホームページより)
本田家は、遠祖を鎌倉時代畠山重忠に仕えた本田次郎近経とし、初代定経(さだつね)までは現在の群馬県渋川に居住していました。二代定寛(さだひろ)は埼玉県川越に居を移し、馬医、調馬を家業とします。家伝には、四代定之(さだゆき)が寛永年間(1624から1643)に谷保に移住したと書かれ、また現在の旧本田家住宅はこの時に用意されたものとされています。
以降、谷保の地に徐々に根差し、代々地主・名主として、また地域に貢献する医者、文人書家として、近隣からも信頼される存在となります。
明治初期には、多摩地域自由民権運動で活躍、大正から昭和にかけては大学町開発に関わり、現在の文教地区国立の礎に貢献しました。明治以降は、書家・篆刻家、地域の名望家として「本田家に足を向けては寝られない」と近隣の方に言わしめた、国立を代表する名家です。