最初発見した時「上保谷」かと思ったが、「上谷保」だった。
発見日 2022年4月28日
発見場所 東京都国分寺市西町1丁目
「上谷保」は「かみやほ」ではなく「かみやぼ」と読む。
歴史
江戸時代の享保年間(1716年から1735年)
それまで原野であった武蔵野に、新田開発が行われた。内藤新田、野中新田など新田名が付く 字名の地域は、すべてこの時代に開発されたものだ。
慶応4年(1868年)
明治維新により、国分寺村 、恋ヶ窪村、内藤新田、戸倉新田、本多新田の5村は品川県に、榎戸新田、野中新田六左衛門組、平兵衛新田、中藤新田、上谷保新田の5村は韮山県に属した。
明治22年(1889年)
市制・町村制施行で10村 が合併し国分寺村が誕生した。
明治26年(1893年)
国分寺村は 、東京府に編入される。
東京府北多摩郡国分寺村
昭和15年(1940年)
町制が施行され国分寺町となる。
東京府北多摩郡国分寺町
昭和18年(1943年)
東京府は東京都に改称した。
東京都北多摩郡国分寺町
昭和39年(1964年)
市制施行によって国分寺市となる。
地名の由来
上谷保(現在の国立市)に住んでいた人々が新しい畑を開拓したので「上谷保新田」と呼ばれるようになったそうだ。
「上谷保新田」が、いつどのようにして「上谷保」になったのかは不明だが、「新田」という語句が田舎っぽいからという理由だろうか?
「上谷保」は国分寺市のコミュニティバス「ぶんバス」のバス停に名称が残っている。
西町の歴史
1964年の市制施行と同時に住居表示制度実施し、現在の町名となる。
現在の町域は、住居表示制度実施までの中藤新田、上谷保新田、榎戸新田の各新田の一部で構成されている。
西町の地名の由来
国分寺市の最西端に位置することから。