歩・探・見・感

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旧町名 北多摩郡国分寺町戸倉新田&国分寺市戸倉新田

国分寺市内藤に「国分寺市戸倉新田」の目撃情報があるというので、2022年3月24日の夕方と2022年3月25日の午前中からお昼過ぎにかけて探索してきた。

内藤に飛地として戸倉新田があるらしい。

2022年3月24日はその飛地辺りを探すが見つからず、暗くなってきたので、探索を中止。
2022年3月25日は、前日より少し範囲を広げて探索するが見つからなかった。
そこで、ローラー作戦を実施するが、やはり見つからなかった。
どこか見落としているところがあるのかもしれないが、あきらめて、次の目的地にとぼとぼと向かう。
工事中の土地があったので、「国分寺市戸倉新田」が設置されていた建物は解体されてしまったのかなあ。と1人でぶつぶつ。

 

次の目的は、戸倉3丁目にある町名看板が無事かどうか確認することだった。

そうしたら、目的地に向かう途中にこれを見つけた。

発見日  2022年3月25日

発見場所 東京都国分寺市戸倉3丁目

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内藤にではなく本家本元の戸倉に「北多摩郡国分寺町戸倉新田」があるではないか!

これで十分満足である。

と思っていたが、更に国分寺市の戸倉新田も見つけた。

 

発見日  2022年3月25日

発見場所 東京都国分寺市戸倉3丁目

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内藤の「国分寺市戸倉新田」を見つけられなかったのは残念であるが、戸倉の「国分寺市戸倉新田」で全然OKである。

 

歴史

江戸時代の享保年間(1716年から1735年)
それまで原野であった武蔵野に、新田開発が行われた。内藤新田、野中新田など新田名が付く 字名の地域は、すべてこの時代に開発されたものだ。

明治維新により、慶応4年(1868年)
国分寺村 、恋ヶ窪村、内藤新田、戸倉新田、本多新田の5村は品川県に、榎戸新田、野中新田六左衛門組、平兵衛新田、中藤新田、上谷保新田の5村は韮山県に属した。

明治22年(1889年)
市制・町村制施行で10村が合併し、国分寺村が誕生した。

明治26年1893年
国分寺村は 、東京府編入される。

昭和15年(1940年)
町制が施行され国分寺町となる。

昭和18年(1943年)
東京府は東京都に改称した。

昭和39年(1964年)
市制施行によって国分寺市となり 、現在に至っている。

 

戸倉の地名の由来

江戸時代、現在のあきる野市にあたる戸倉という場所からこの地に移住した者が開いた新田による。

 

国分寺市のほぼ中央部に位置する戸倉は、江戸時代の中期、戸倉村(旧西多摩郡五日市町戸倉、現在はあきる野市)出身の郷左衛門によって戸倉新田として開かれた。
一般に江戸時代における武蔵野の新田開発は、開発願を提出後に開発地の割り渡しが幕府からあり、村として成立していた。
戸倉新田は、郷左衛門が番場宿、本町(いずれも現府中市)より開発前の芝地を買い入れ、江戸時代中期の享保14年(1729年)以後、出百姓へ分譲したことに始まる。
同年中に開発地を購入した者は9人あり、出身地は過半の5人が檜原村だった。宝暦10年(1760年)までに42軒の移住者があり、そのうち半数の21軒が檜原村の出身者だった。
しかし、元文4年(1739年)の検地では名主郷左衛門が依然として全体の22%を所有していた。

 

戸倉新田については片山迪夫著『戸倉新田と出百姓』(1959年)という書籍があるようだ。

 

小平市では2つの新田を見つけている。国分寺市でも平兵衛新田を見つけており既に紹介しているが、いくつの新田を見つけることができるだろうか?