最近新たに発見したものもあるので、これまで発見したものと合わせてまとめて紹介しよう。
①台東区入谷町三二五番地
発見日 2021年4月3日
発見場所 東京都台東区北上野二丁目
②台東区入谷町二三一
発見日 2021年4月5日
発見場所 東京都台東区入谷一丁目
③台東区入谷町二三〇
発見日 2021年4月5日
発見場所 東京都台東区入谷一丁目
以前目撃情報があった「下谷區入谷町」時代の住所プレートがあった建物は解体されてしまった。
④イリヤ-14
発見日 2022年6月4日
⑤イリヤ-26
発見日 2021年4月5日
⑥イリヤ-30
発見日 2023年1月14日
発見場所 東京都台東区
旧町名由来案内
下記は別バージョンの旧町名由来案内のもの
その昔、この付近は坂本村に属する千束池であったが天正のころ(1573~1591)鳥越村の人々によって埋め立てられ田圃になった。江戸時代になってから現在の金杉通り東側に少しづつ寺院などが建ち、家並みができるにつれて、いつしか元入谷・中入谷・南入谷と呼ばれるようになった。明治二十二年(1889)坂本村の大部分が下谷区に編入され、その地域が下谷入谷町として誕生した。昭和十二年、元入谷が坂本、金杉に町名が変わり、同四十年の住居表示で南入谷のうち、言問通り南側の地域が隣接する松葉町と共に、松葉町の「松」と入谷町「谷」をとって「松が谷」となった。松が谷一~四丁目のうち南入谷地区は松が谷三丁目の半ばと松が谷四丁目である。
この地域は、今なお下町情緒を色濃くのこし、国の重要有形民俗文化財に指定された富士塚で名高い小野照崎神社の祭礼(五月)入谷朝顔市のイベントとして盛大に催される入谷南公園の朝顔音頭大会(七月)合羽橋本通りの七夕祭り(七月)赤羽神社の火渡り式(十一月)等々、数多い年中行事を楽しむ町である。
旧町名区域図
旧町名区域図
入谷町会、入谷中央町会
歴史
1937(昭和12)年
西部を坂本一・二丁目に、北西部を金杉一丁目に割譲して町域を狭めた。
1943(昭和18)年7月1日
東京都下谷区に所属。
一部が東京都浅草区松葉町に編入される。
1947(昭和22)年3月15日
東京都台東区に所属。
1965(昭和40)年8月1日
住居表示の実施により、北上野一・二丁目、松が谷三・四丁目、入谷一・二丁目、竜泉一丁目、下谷一~三丁目のそれぞれに編入となった。
「入谷朝顔発祥之地」と「入谷乾山窯元之碑」
国道4号入谷交差点の南西角の三角地帯上にある。
入谷朝顔発祥之地
コンクリート製の擬木のようなものに「入谷朝顔発祥之地」とコンクリートのようなもので盛り上げた文字で書かれている。裏側の碑文は粘土のようなものに手書きで書いたような文字で彫られている。
入谷の朝顔について
入谷の朝顔は、明治2年(1869)近傍の寺院で鉢植を造って、人々の縦覧に供したのが、そのはじまりとされているが、15、6年ごろから朝顔は天下の名物となった。その後大正2年(1913)以来永らく中絶されていたが、第2次世界大戦後地元の復活運動によって昭和25年(1950)7月から再開され、今や東京の年中行事の1つとなっている。ついては、われらは往時の盛事をしのび、入谷朝顔の発祥の地として、ここに記念碑を建立するものである。
入谷から出る朝顔の事かな 子規
1956年7月6日 下谷北部観光連盟
「中絶」?
「中断」の間違いか?
入谷乾山窯元之碑
交差点にあるので、車で通る時は切り株位にしか見えないかもしれない。
これに関しては何の案内もなかった。
入谷の地は古くから農閑期を利用して土器の製造の盛んなところであり、名陶工といわれた尾形乾山は、1731 年(享保16年)69歳の頃に江戸に下り、寛永寺領入谷の鬼子母神の前あたりに窯を築いて晩年を送った。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮したことを顕彰して建立された。
塩の看板とでんわでんぽうのツーショット写真
オリコの塩の看板はよく見かけるが、でんわでんぽうの看板はたまに見かける程度だ。