歩・探・見・感

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旧町名&ナンバーくん住所プレート 新宿区若松町

現存する町名だが、住居表示前の表札をいくつか発見した。

大好物のナンバーくんも久しぶりに発見。

 

発見日  2022年6月13日

発見場所 東京都新宿区若松町

 

①新宿区若松町四一番地

 

②新宿区若松町一二一番三四

 

③新宿区若松町一三三

 

④新宿区若松町一三八

テープが貼られているがスケスケである。

 

探せばもっと見つかったかもしれないが、現存する町名はあまり面白みがないので、このくらいで。

 

 

⑤ナンバーくん住所プレート

相変わらずサビがひどい

 

歴史

1878年明治11年
東京15区の制定で東京府牛込區へ編入

1947年(昭和22年)
東京23区制定で新宿区へ編入

1982年(昭和57年)
旧町名を継承する形で住居表示が実施された。住居表示実施時に原町三丁目の一部を編入している。

 

地名の由来

かつて当地の若松が江戸城に正月用の門松として献上されていたことからといわれている。

 

戸山から大久保通を渡るとマンションの自転車置き場で偶然このようなものを発見した。

 

柳生但馬守邸跡
荒木貞夫

由来

探してみたが、この文章を書き写した方は見当たらず、自分で書き写してみた。

 

剣豪柳生仁左衛門天保八年五月、名古屋市南外堀町ヨリ此地番ニ移リ、柳生流ノ剣道場ヲ開校ス。以后三代、子弟ノ育成ニ努メ、斯道ノ達人多数輩出ス。

明治四十二年五月ニハ伊勢松坂ノ三井高達ノ居住トナリ。昭和十八年三月ヨリ大東亜戦争中ハ陸軍偕行社ノ所有トナリ。陸軍将校ノ宿舎トシテ利用セラルルモ昭和二十年三月米軍ノ大空襲ニ依リ焼失ス。
昭和二十一年九月、当主山根肇太郎所有地トナル。然レドモ敗戦後都市計画ハ急進、時ハ移リ地形ハ変容シ、旧柳生道場並ニ三井邸ノ形跡ヲ実証スルモノナシ。茲ニ其ノ煙滅ヲ惜ミ此ノ石ニ録シテ永世ニ傳ヘントス。

昭和五十三年十二月

参議院議員 原文兵衛 書

 

読めない漢字や意味の分からない熟語、送り仮名がカタカナで書き写すのに結構時間がかかってしまった。

 

この碑関連のことがいろいろ気になったので、調べてみた。

 

この碑について

新宿区商店会情報誌「新宿商人」創刊号 2016年10月号の「商店会ちょこっと散歩」連載第1回 若松商店会にも旧柳生但馬守邸跡の碑が紹介されていた。

 

柳生但馬守邸について

小説『マンモスの抜け殻』(著者相場英雄)には「若松町は、江戸時代には柳生但馬守宗矩の邸宅があった武家屋敷の一帯で、当時の地割の名残りを留めつつ、今は住宅地となっている。」の記述がある。

 

柳生但馬守の上・中・下屋敷は下記にあった?

大和柳生藩柳生但馬守上屋敷 港区新橋6-19 
大和柳生藩柳生但馬守中屋敷 新宿区四谷4丁目 
大和柳生藩柳生但馬守下屋敷 品川区上大崎4丁目

ということは、若松町に屋敷はなかったのか?

 

柳生延春厳道の著書「柳生新陰流道眼」に以下の記述がある。

「・・・柳生新陰流正統第十九世柳生厳周(としちか)の上京を歓迎し、牛込区若松町に構えた宏大な土地屋敷の一角に道場を建設、柳生新陰流の普及を図る事とした。これが、碧榕館である。
厳周・厳長は碧榕館の裏に住居し、済寧館で指導するかたわら碧榕館で教授した。厳長はこの牛込若松町五八番地で結婚し、大正八年一月に延春をもうけている。」

道場が建設されたのは大正時代なのか?
それとも建て直したのか?

 

またその書に次の記述があった、

「ちょうどそのころ柳生基夫に事業の失敗がありその土地屋敷を三井財閥に売却する事になった。」

三井高達の居住になったということだろう。

 

この碑に関連する人物について

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり、元亀2年(1571年)~正保3年3月26日)
柳生藩の初代藩主は柳生宗矩で、父柳生宗厳は剣術の一流派、柳生新陰流創始者として知られ、徳川家康に仕えていました。
宗矩も剣術の才によって徳川家康・秀忠・家光に仕え、厚遇されたのです。
宗矩は関ヶ原の戦いに従軍し、柳生荘に2,000石の所領を安堵されました。
慶長6年(1601)に、のちの2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術指南役として仕え、新陰流を伝授しています。
寛永9年(1632)に、宗矩は初代の幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任務としていました。
寛永13年(1636)に所領の加増があり、計1万石を受けて大名となり、大和国柳生藩が立藩したのです。
その後、加増され1万2,500石になっています。
(品川区ホームページより)

 

柳生仁左衛門
柳生仁左衛門柳生但馬守と同一人物だと思うが、柳生仁左衛門で調べてみたところ、ヒットしなかった。別名や通称は新左衛門、又右衛門だけだった。
柳生仁左衛門って誰だ?

 

三井高達(みついたかたつ)
生年月日    明治二十六年十二月 (1893)
記述部分(略伝)君は東京府人三井高修の弟にして明治二十六年十二月を以て生れ大正九年先代清子の入夫となり家督を相續す現時三井鑛山會社監査役たり

住所      東京、牛込、若松町一四八

(『人事興信録』データベースより)

 

山根肇太郎(やまねちょうたろう、1902-?)
鳥取県土人物文献データベースによれば、鳥取県三朝町の人、軍人(陸軍,予備士官学校教官等。 軍人(陸軍,予備士官学校教官等。陸軍復員局。)。実業家(不動産業,光商事を設立,山容不動産株式会社代表取締役)。全国料理飲食喫茶業組合連盟会長。昭和21年9月、山根氏は旧柳生但馬守邸の土地所有者になった。

 

原文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日 - 1999年(平成11年)9月7日)
日本の内務官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等旭日桐花大綬章。
参議院議長(第20代)、環境庁長官(第13代)、自由民主党参議院議員会長(第17代)、女性のためのアジア平和国民基金アジア女性基金)の理事長等を歴任した。

 

荒木 貞夫(あらき・さだお:1877 - 1966)
日本の陸軍軍人、第 1 次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。 真崎甚三郎と共に皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。極東国際軍事裁判において、終身禁固刑の判決を受け、服役する。1955 年に病気のため仮出所し、その後釈放。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。

 

ひとつの碑だけでも調べ出すと止まらない。

結果、疑問だらけで終わってしまい、消化不良気味だが、このくらいにしておこう。