世田谷区の旧町名は、「◯◯町」の「町」だけが消滅して現町名が「◯◯」というパターンが主流だ。
今回紹介する廻沢(めぐりさわ)町は下代田町と同じで完全に消滅した数少ない町名の一つだ。
①東京都世田谷区廻沢町206番地
発見日 2021年4月23日
発見場所 東京都世田谷区千歳台四丁目
②東京都世田谷区廻沢町六四七の九
発見日 2022年10月20日
発見場所 東京都世田谷区千歳台六丁目
③世田谷区廻沢町838
発見日 2021年4月23日
発見場所 東京都世田谷区千歳台二丁目
④世田谷区廻沢町850-2番地
発見日 2021年4月23日
発見場所 東京都世田谷区千歳台二丁目
ここからは廻沢が付くものを紹介しよう。
完全に消滅した町名だが、結構残っていた。
太陽の子 めぐりさわ保育園
小田急バス バス停
廻沢通り
路線延長 500m
通称名指定年 昭和57年
昭和57年ということは廻沢町が消滅(昭和46年)してから、命名された通りのようだ。
千歳台廻澤町会
廻沢が付く公園がいくつかあった。
公園巡りも楽しいものだ。
変わった遊具や史跡があったり、いろいろな発見がある。
廻沢公園
廻沢南公園
変わった形の竣工記念碑があった
周りには世田谷区のシンボル等が彫られていた。
三級水準点
「三等水準点」だと思ったら、「三級水準点」だった。
「等」と「級」の違いはなんだろう?
調べてみよう。
国土地理院が基本測量として設置・管理するのが「~等水準点」で、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」だそうだ。
そもそも水準点とは、河川や道路、港湾、下水道、鉄道等の正確な高さの値が必要な工事で測量の基準として用いられるものだ。
最近は、これにもはまっていて、探索の範囲が広がる一方だ。
廻沢西公園
「忠魂碑」が立っていた。
帝国陸軍皇道派の重鎮・荒木貞夫の揮毫によるもので、肩書が陸軍大臣となっていることから荒木貞夫が陸相を務めた昭和6年から9年の間に建立されたもの。
歴史
1889年(明治22年)
上祖師ヶ谷村、下祖師ヶ谷村、廻沢村、船橋村、八幡山村、粕谷村、給田村、烏山村が合併し、神奈川県北多摩郡千歳村が誕生し、大字廻沢となる。
1936年(昭和11年)
東京市に編入され、世田谷区に属することとなり、世田谷区廻沢町となる。
1971年(昭和46年)
住居表示実施により廻沢町から千歳台一丁目〜千歳台六丁目となり、廻沢町は消滅した。
地名の由来
世田谷区のホームページに「千歳台」の地名の由来に「廻沢」の地名の由来が記載されていた。
千歳台という地名は、昭和46年環状八号道路の貫通などによる地域の変更で誕生しました。それ以前は烏山南部、粕谷、八幡山などとともに「廻沢」という広い地域でした。
廻沢村は、昔は施沢、巡沢とも書き、このめぐり沢の名は地形から付けられたものとされ、村の東に位置する東覚院の本尊薬師如来像は、この地が水清らかな舟形の霊地であるから安置されたといういわれがあります。
これを裏づけるのは、かつて東覚院の西北の窪地は雨が降ると水が溜まる沢地で、そのためにこの水を烏山川へ落としていて、いわゆる水めぐる沢だったのではないかといわれています。
《参考》 「千歳」の由来(三田義春編『世田谷の地名 下』より抜粋)
旧千歳村は、明治22年5月1日市制及び町村制が施行されたとき、旧上祖師ヶ谷村、旧下祖師ヶ谷村、旧廻沢村、旧船橋村、旧八幡山村、旧粕谷村、旧給田村、旧烏山村の8ヶ村が合併して成立したものである。「千歳」という村名は、候補村名12のうちから投票により決定したというもので古くから土地に密着した由来等はなく単に縁起のよい名称というに過ぎないものである。