歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

本所松坂町趾石碑

中央区から両国橋を渡って墨田区へ。

もう随分前に訪問した気になっていたのだが、撮った写真が見つからなかったので、訪問するのを忘れていたようだ。

記憶が超あいまいな自分だった。

 

目的のものを道路の反対側から見る。

 

横断歩道は少し離れた所にあり、歩道橋を渡ったほうが早かった。

歩道橋の上からパチリ。

 

発見日  2023年2月25日

発見場所 東京都墨田区両国三丁目

 

ここに旧町名の痕跡が残っている。

 

正面

本所松坂町趾

「本所松坂町」ではなく「本所松坂町」となっている。

ネットでこの石碑のことを調べてみると「本所松坂町」と書かれているのがほとんどだった。

「跡」と「趾」に違いがあるのか調べてみた。

お城は「城跡」と書かれていることが多いが、「城址」や「城趾」と書かれていることもあるようだ。

読み方は、次の通りとなる。
城跡   ・・・じょうせき、しろあと
城址・城趾・・・じょうし

1945年(昭和20年)より前は、「しろあと」を意味する漢字は「城址」や「城趾」だけだった。
それが、1946年(昭和21年)の「当用漢字表」が公布されたことがきっかけとなり、漢字表にない漢字は使用できなかったので、「址」や「趾」の字が使えなくなった。
そのため「城址」や「城趾」は意味も似ていて当用漢字表にものっていた「跡」に変えられ、「城跡」となったということだ。
しかし、1981年(昭和56年)には当用漢字表が廃止となり、「常用漢字表」が登場した。ここにも同じく「址・趾」はなかったのだが、使用を禁止するのではなく、可能ならば使用しないようにというレベルになったため、「城址・城趾」は復活している。

本体
 高さ  約182cm
 幅   約46cm
 奥行  約30cm

土台
 高さ  約5cm
 幅   約67cm
 奥行  約53cm

 

左下を拡大

東京市長 永田秀次郎

永田秀次郎
1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。
第8代(1923年5月29日 - 1924年9月8日)・第14代(1930年5月30日 - 1933年1月25日)東京市長

 

右側面

碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ
然ルニ大正大震災後ニ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日
町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ
永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス

 

左側面

左から自動車が走ってきていないことを確認し、車道に出てから撮った。

こちらの面を撮る時は、車道をよく確認して轢かれないように気を付けよう。

 

赤穂義士史蹟吉良邸跡
本所松坂町公園
是より 東南約一丁半  

 

吉良邸跡については、そのうちに紹介する予定である。

 

裏面

昭和七年六月當町會建立

 

どこかの面に彫られていた石工

髙見?

このような大きな石碑が、撤去されずに京葉道路沿いに残っているのは奇跡に近いのではないだろうか。

これからも残り続けてほしい。

 

歴史

1878年明治11年)11月2日
東京府本所区

1889年(明治22年)年5月1日
東京府東京市本所区

1929年(昭和4年
帝都復興計画の一環により、東両国二・三丁目に編入となり消滅。