歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名「墨田区向島請地町」

この日(2024年2月22日)の最高気温は8℃、小雨が降り、少し風もある。

探索には向いていない日だ。

寒い分には着ればいいのだが、雨と風には閉口する。

この辺りは随分歩いたはずだが、新たに②を発見することができた。

歩いたことがあると言っても、ローラー作成を実施したわけではない。

大体いつも適当に歩いているだけだ。

目撃情報があったものは別だが、偶然このようにたまに新たなものが見つかる時にある。

旧町名の痕跡に関わらず何か見つかればいいなくらいの感覚で歩くわけだから、見つけられるというのは運しかないだろう。

運もいい日もあれば運の悪い日は・・・あまりない。

歩いていれば写真に撮りたいものは何かしら見つかるのだ。

墨田区向島請地町一八二番地

発見日  2021年4月24日

発見場所 東京都墨田区向島5丁目



墨田区向島請地町一五七番地

発見日  2024年2月22日

発見場所 東京都墨田区向島4丁目



地名の由来

請地という地名は、中世の荘園制の時代に地頭の管理地「請地」だったからだとか、湿地帯の「浮き地」であったことに由来するなどと言われている。

歴史

江戸から明治になり墨田区北部は葛飾郡の一部で、東京府葛飾郡請地村だった

明治11年(1877)の15区6郡制により墨田区南部(北十間川以南)は東京府本所区に、墨田区北部は葛飾郡が分割され、葛飾区・江戸川区江東区東部と共に南葛飾郡になり、請地村は東京府南葛飾郡請地村になる。

明治22年(1889)の市町村制により東京市が成立、同時に旧古川以西一帯が本所区編入された。
その結果、請地村は分断され、北西部は東京府東京市本所区向島請地町になる。
同様に古川以西の村はそれぞれ向島須崎町向島小梅町・向島中之郷町・向島押上町になった分断された請地村の南東部は葛西川村・小村井村・亀戸村一部等と合併し南葛飾郡吾嬬村に、同時に大畑村と上・下木下川村が合併し大木村になる。

大正元年(1912)の町村合併で、吾嬬村と大木村が合併し、東京府南葛飾郡吾嬬町になる。

大正12年(1923)の町制により隅田村及び寺島村が南葛飾郡隅田町及び寺島町になった。

昭和6年(1931)、関東大震災復興事業で本所北部地区の区画整理が行われた地域が、町名改正により新たな町境が出来、「向島1~3丁目」「小梅1~3丁目」及び「隅田公園」になる。

昭和7年(1932)、東京市が35区になり、墨田区北部の隅田町・寺島町・吾嬬町三町で向島区が成立。

昭和18年(1943)の都制施行により東京府が東京都に改められ、向島請地町は東京都本所区になる。

昭和22年(1947)都制改正が施行され、東京都は23区となり、本所区向島区が合併し墨田区が誕生。
当時、町内には「向島請地南・元・北」の三町会があった。

昭和39年(1964)6月29日、住居表示が実施され、曳舟川通り・東武亀戸線・十間橋通り・北十間川言問通りに囲まれた地域が東京都墨田区押上になり、向島請地町は向島四丁目・五丁目と押上一・二丁目に分断された。

この住居表示により、町会は向島請地南町会が押上一丁目仲町会に、向島請地元町会が押上二丁目町会に、向島請地北町会が向島四丁目北町会へと名を変えた。