歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

千駄木ふれあいの杜 in 東京都文京区千駄木

この急階段を上から降りてきた。

この階段は「千駄木のおばけ階段」「お化けだんだん」「おばけだんだん」「へび坂」と、様々な名称で呼ばれているらしい。

この階段も、降りる時と上る時の段数が違うとか、太田道灌の子孫である太田氏ゆかりの亡霊が出るとか出ないという話が伝わっているようだ。

 

訪問日  2023年1月21日

訪問場所 東京都文京区千駄木1-11

 

右側に自然林が広がっていた。

以前も訪れたことがあるはずだが、中には入らなかったと思う。

 

千駄木ふれあいの杜

江戸時代、この辺りは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が三代将軍徳川家光から賜った下屋敷で、現千駄木1丁目一 帯に及ぶ広大な敷地でした。 そこからの眺めは、「太田備牧駒籠別荘八景十境詩・画巻」(詩:林鵞峯・筆:林洞・画:狩 野安信) に描かれています。 そこには湧き水を源泉とする池があり、明治以降これは「太田が池」と呼ばれました。近くには森鴎外夏目漱石らの文化人が住まいを構え、その作品の中に当時の風景を書き残しています。昭和の初めまでに「太田が池」はなくなりましたが、昭和40年代まで屋敷内の庭には湧き水が残っていました。しかし時代の変遷とともに、その湧き水も涸れ、本郷台地東縁崖線の姿を伝える崖地の緑も、現在は「千駄木ふれあいの杜」を残すのみとなりました。千駄木ふれあいの杜は、所有者である太田氏と文京区との間で契約が結ばれ、平成13年10月より市民緑地※1として一般公開されてきましたが、できる限り樹林を後世まで残すよう配慮することを条件として、平成28年3月に太田氏より区に寄附されました。
区ではその意向に沿うよう、都市に残る多様な動植物の生息空間(生物多様性)の保全をする都市公園(都市林)※2と位置づけ、多くの方が自然に親しんでいただけるよう公開しています。

※1 土地所有者等と地方公共団体又は緑地管理機構が契約を締結し、緑地や緑化施設を公開する制度 (都市緑地法)
※2 主として動植物の生息又は生育地である樹林地等の保護を目的とする都市公園 (都市公園法都市公園法施行令 )

文京区土木部みどり公園課

 

以前あった説明板の内容。

 江戸時代、ここは太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷で、その当時は、現在の日本医科大学から世尊院あたりまでの広大な敷地でした。
 明治に入ると、屋敷は縮小していきます。かつての屋敷跡は「太田の原」と呼ばれそこには太田ヶ池がありました。周囲は田園地帯が広がる、大変に風光明媚な場所だったようです。屋敷の近くには森鴎外らの文化人が住まいをかまえ、小説の中にも周囲の風景についての文章が残されています。
 大正から昭和にかけて、現在の不忍通りに市電が開通し、市街化が進みます。太田ヶ池もなくなり、住宅地となり、周囲の田畑はほとんど見られなくなりました。
 時代の変遷とともに、かつて屋敷内に連なっていた崖地の緑もここを残すのみとなりましたが、文京区の中でその貴重な姿を現在に伝えています。
 今回、所有者のご好意により文京区役所との間に「市民緑地契約」が結ばれ、一般公開されることになりました。この貴重な緑を末永く見守って行きましょう。
※中に「太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻」の案内板があります。

 

屋敷森通信 第35号

屋敷森のテントウムシ
屋敷森には、いろいろな種類のテントウムシが、年中、たくさん生息しています。
テントウムシは、エサの違いによって4種類に分けられます。
アブラムシ類を食べるもの、カイガラムシを食べるもの、菌類を食べるもの、植物を食べるもの
屋敷森には、どのエサもあるので、いろいろテントウムシがたくさんいるのです。

公園内

自然のままだけど、夏場だと、蚊が多そうなので、入るのをためらいそう。

 

斜面や朽ち木にのぼって遊ばない!!

2014年2月の大雪で千駄木ふれあいの杜(屋敷森)の  シンボルツリーである大スダジイの4本の幹のうち2本が倒れました。自然の森では木が倒れて朽ちる と、やがてそこに新しい木が育ってきます。これを森の倒木更新といいます。
屋敷森でもスダジイの倒木が朽ちて自然にかえっていくままにまかせています。 都会の真ん中で倒木更新が間近に見られる貴重な森。
千駄木の森を考える会は、自然のままの森をそのままの形で保全しています。

 

「土を持ち込む」 「土を持ち出す」 ことはできません

千駄木ふれあいの杜は、「都市林」という動植物が本来のまま生き続けられることをめざし、保全していある公園です。
植木鉢など外の土を持ち込んで捨てると、千駄木ふ れあいの杜にいない菌類等の微生物や種子が入り込む可能性があり、生態系を壊す恐れがあります。また、土を掘り起こすと、林床を痛める恐れがあります。
ご協力をお願いいたします。
文京区

 

千駄木ふれあいの杜」の自然

文京区は武蔵野台地の東端に位置しており、この樹林は区内に残る貴重な崖地の緑です。また、この樹林は長く自然にまかされてきたために、若干の落葉樹を除いて武蔵野台地本来の植生である常緑広葉樹林に戻りつつあります。

 

千駄木ふれあいの杜」の由来

江戸時代、ここは太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷で、その当時は、現在の日本医科大学から世尊院あたりまでの広大な敷地でした。
明治に入ると、屋敷は縮小していきます。かつての屋敷跡は「太田の原」と呼ばれ、そこには太田ヶ池がありました。周囲は田園地帯が広がる、大変に風光明媚な場所だったようです。屋敷の近くには森鴎外らの文化人が住まいをかまえ、小説の中にも周囲の風景についての文章が残されています。
大正から昭和にかけて、現在の不忍通りに市電が開通し、市街化が進みます。太田ヶ池もなくなり、住宅地となり、周囲の田畑はほとんど見られなくなりました。時代の変遷とともに、かつて屋敷内に連なっていた崖地の緑もここを残すのみとなりましたが、文京区の中でその貴重な姿を現在に伝えています。
今回、所有者のご好意により文京区役所との間に「市民緑地契約」が結ばれ、一般公開されることとなりました。この貴重な緑を末永く見守って行きましょう。

 

太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻(文京区指定有形文化財

江戸時代の初め (1600年代) 太田資宗の時代に、屋敷からの眺めを林鵞峯 (林羅山の三男)が八景十境に見立てて詩巻としています。 八景は屋敷から見える周囲の風景を、十境は屋敷内の庭の風景を詠んだものです。資宗の嫡子、資次は、「一州一郡の広さですら、そこに八の勝景を選ぶのは難しいのに、一別墅の中にこれだけの景境が備わるとは、もはや官暇の楽しみを他に求めることはないではないか」と大いに喜んだといいます。画巻は、林鵞峯が詠んだ時に狩野派の狩野安信が風景を描き添えたものです。
上図は八景図で、不忍池を中心とした寛永寺など上野一帯の風景の他、湯島天神の境内、富士山、筑波山隅田川などが描かれており、この高台からの眺めがすばらしかったことが想像できます。
下図は十境図の最後の部分で、屋敷内にあった翫月亭から月を眺めるこの屋敷の主人、太田資宗が描かれています。
詩画巻は、平成元年3月6日、太田氏から文京区に寄贈され、文京ふるさと歴史館で保管されています。

 

やしきもりノートが置いてあった。

最終ページ

「結婚おめでとう」とここと全然関係ないことが書いてあった。
ここに書くことか?

2023.1.9が最後だった。