歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

千代田区九段南の二七通り沿いに小さいが趣ある牡丹園があった

二七通りを歩いていたら、牡丹の花が飛び込んできた。



発見日  2024年4月20日

発見場所 東京都千代田区九段南四丁目

富士植木という会社の敷地にあった。



写真を撮ろうとしたら、2組ほど来訪。

中々どいてくれないので、反対側の歩道に移動し、いなくなるのをしばし待つ。

10分くらい待っただろうか、ようやくはけたので、一人で撮影開始。



ちょうど見頃を迎えていた。

右側



左側



もっと近くに寄って撮ろうと思ったのだが、目で見た色とカメラのレンズを通して見た色が違い過ぎて、離れた所からだけにした。

特に右側の手前の濃い紫の牡丹、カメラを通すと赤っぽくなり、全然違った色に見えた。

“四ツ目牡丹園”の再現

~ 弊社が嘗て営んでいた"牡丹園"を90年ぶりに再現 ~

弊社の創業は、嘉永2年(1849年)です。その頃は芍薬や変化朝顔を栽培することで知られておりました(『武江年表』ほか)。その明治時代には、花屋敷を営み、市民の皆さんに大変喜んでいただきました。場所は本所四ツ目、現在のJR錦糸町南方400mくらいのところにありました。そこでは、数多くの樹木や花木を扱っておりましたが、なかでも牡丹の人気が高く、花屋敷は“本所四ツ目の牡丹園”とか“四目牡丹園”と呼ばれ、親しまれておりました。
園主は、代々文蔵(ぶんぞう)を名乗り、植木屋の文蔵ですから“植文(うえぶん)” と通称しておりました。その植文の牡丹園は、新聞や雑誌に載るほか、明治28年(1895年)には楊斎延一(ようさいのぶかず)により版画(下)に描かれるほか、永井荷風は『牡丹の客』という短編小説の舞台に使い、正岡子規により歌にも詠まれました。

牡丹園は、明治時代終わりの大水に襲われ、関東大震災の大災に遭い、遂に消失してしまいましたが、植文は都内で植木屋を続け、戦後は株式会社富士植木として、ここ九段の町で造園業を営んでまいりました。この度この町で当時の牡丹園を再現し、町の皆さんに牡丹を楽しんでいただこうと考えた次第です。
嘗て牡丹園のあった場所の道路は、現在も“牡丹橋造り”と呼ばれており、江東区文化財のひとつとなっております。この九段の町におきましても、地元の植木屋として、社丹の花や豊かなみどりにより、安らぎと潤いのある環境づくりに努めてまいりたいと考えております。

2022年、2023年の開花状況


青もみじに囲まれた灯籠

こんなところで牡丹鑑賞ができ、優雅な気分に浸れた。