歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 千代田区猿楽町

先日神田猿楽町を訪問した時、お神輿は建物の中に置かれていたが、今回立ち寄ると神田祭の為、外に出され、別な場所に移されていた。

 

お神輿

 

発見場所 東京都千代田区神田猿楽町

 

掲示板等に町名が変わったことが書かれていた。

 

発見日 2023年5月11日

 

発見日 2021年12月23日

 

発見日 2023年5月11日

まだ、あったのだが、あり過ぎると撮る気がなくなってくるので、これくらいにしておいた。

 

千代田区町名由来板

「猿楽町」界隈(安政三年・1856)

猿楽(のちの能楽)は、室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、 江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の 人々の屋敷が、現在の神田神保町一~二丁目から西神田一~二丁目のあ たりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。
この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは、明治五年(一八七二)のことになります。
その翌年、神田錦町にあった錦坊学校の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。 その後、錦華学校と名前を変更したこの学校で学んだのが、近代日本の文壇に大きな足跡を残した夏目漱石です。漱石はこの小学校で学年を飛び越えて進級するほどの秀才ぶりを発揮したといわれています。
ところで、猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正十三年(一九二四)の区画整理でつくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。 どちらの坂も一気に上る と息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休み できるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りを強い られます。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は 「女」と呼び習わされるようになりました。
猿楽町町会

 

この地図は2003年現在なので、猿楽町のままになっている。

当然だが、現在の神田三崎町も三崎町のままになっている。

 

このタイプの街区表示板はすべて新しいものに置き換えられていたが、

芝信用金庫が広告主のものが一枚だけ残っていた。

 

街区表示案内図

町内にあるものは神田猿楽町になっていた。

 

別の町内にあったものは猿楽町のままだった。

 

猿楽通り