今回は旧町名「中野区相生町」の痕跡を紹介しよう。
②の存在は最近知ったのだが、②は①のすぐそばにあった。
①中野区相生町二十二番地
発見日 2021年6月21日
発見場所 東京都中野区本町一丁目
②中野区相生町二三
発見日 2022年5月31日
発見場所 東京都中野区本町一丁目
木彫りの表札だろうか?
門に設置されていれば、薄い文字でもよくよく確認することがあるのだが、玄関ドア付近に設置されていると、遠目で見て、よくわからない場合は、近くに寄って確認する勇気が出ず、スルーしてしまう。
これは近くによっても少し暗かったので、はっきりとわからず、撮った写真を見て確認できた。
老眼だとこうなる。
暗いところの文字には弱いのである。
本一相生町会
相生町域を含む中野長者橋から山手通りと神田川に挟まれた青梅街道までが「中野区本町一丁目」と表示されることになったので、慣れ親しんだ旧町名が消えることを惜しみ、本町一丁目の略称の本一を旧町会名の上につけ、現在の町会名である「本一相生町会」が発足した。
相生通り
本町一丁目5番~本町一丁目11番
相生仲通り(本町一丁目6番~本町一丁目19番)というのもあるようだ。
相生二番坂通り
本町一丁目7番~本町一丁目24番
相生一番坂通り(本町一丁目15番~本町一丁目18番)もあったようだが、真剣には探さなかったので、見つからなかった。
2022年6月2日
相生一番坂通りのプレートは再訪して探すが見つからなかった。
仕方ないので、掲示板に記載があったものを載せておこう。
相生橋通り
相生橋の橋の名前の由来は、橋の西側、現在の中野区本町一丁目にあった相生町の旧町名からかと思ったが、どうやら橋が架けられた時代の方が古いらしい。
気になっていたこと。
橋のたもとには、その橋の名前を示すプレート「橋名板(きょうめいばん)」がこのように貼られている。ひらがな表記のものもあれば漢字表記のものもある。
ひらがなは「ばし」ではなく「はし」なのはなぜ?
実はハッキリとした理由はなく、習慣としてこうなってしまっているらしいのだが、ひらがな表記が「ばし」ではなく「はし」と濁点が付かないのは、川が濁らないようにとの祈りが込められてるからだそうだ。
一説では「国の仕様書に濁点を除く記述があったのかもしれない」とも言われてる。また、ごく少数だが「○○ばし」と表記されている橋もいくつか確認されている。
サイレンが鳴ったら怖い。
あいおいポケットパーク
開園月日 2000年09月26日
所在地 本町一丁目1番
現況面積 63.18㎡
歴史
1889年(明治22年)
市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立。
中野村は(旧)中野村、本郷村、雑色村が合併して成立。
1897年(明治30年)
町制施行して中野町となった。
1931年(昭和6年)1月1日
中野町の行政地名変更の実施により相生町成立。
1932年(昭和7年)10月1日
東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。
中野町と野方町の区域をもって中野区が新設された。
1943年(昭和18年)7月1日
東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。
1967年(昭和42年)
相生町から本町一丁目が成立。
地名の由来
今から100年前頃の大正期の神田川は、左右に大きく蛇行しており、川を渡る橋の数も当町域付近には成願寺橋(塔鐘橋)と淀橋の僅か二橋しかなく、町の人々には大変不便だった。
大正12年12月に神田川旧川筋の淀橋から上流約300mの地点に当時の地名で中野町大字本郷字塔屋敷(現本町一丁目内)と対岸の淀橋町大字角筈字長町(現西新宿五丁目内)を結ぶ新しい橋が架けられ、両町がお互いに仲良く発展するように、縁起の良い名前の「相生橋」と命名され、人々の往来は楽になった。(現在の相生橋は、昭和初期の河川改修により当時より東側に約100m移動している。)
1931年(昭和6年)1月1日をもって中野町全域において地番の改正が大々的になされ、町名は上記の淀橋町との境界に架かっている相生橋の「相生」を採って「相生町」が誕生した。