歩・探・見・感

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千代田区神田猿楽町付近の坂とキカイ湯跡

神田猿楽町付近を探索中にいくつかの坂に出会った。

 

撮影場所 東京都千代田区神田猿楽町付近

 

撮影日  2023年5月6日

 

男坂

上から

 

下から

 

江戸時代以来、猿楽町と駿河台の地であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。 一九二四年(大正十三) 八月、震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と西側の屈曲した坂の二本が作られました。 直線的に上る坂のため「男坂」と名付けられ、西側の緩やかな坂は「女坂」と名付けられました。

この坂を男坂といいます。駿河台2丁目11番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく大正13年(1924)8月、政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。

所在地 神田猿楽町二丁目

 

女坂

 

上から

 

下から

 

江戸時代以来、猿楽町と駿河台の地であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。 一九二四年(大正十三) 八月の震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と東の直線的な坂の二本が作られました。 途中に二ケ所の踊り場を設けた緩やかな坂のため「女坂」と名付けられ、直線的に上る急な坂は「男坂」と名付けられました。

この坂を女坂といいます。駿河台1丁目7番地の端から猿楽町に下る石段の坂”男坂”に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので”女坂”と呼ばれています。この坂のできたのは、大正13年(1924)8月、政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。

所在地 神田猿楽町二丁目

 

小栗坂

千代田区内に多く存在する人名にちなんで名付けられた坂道の一つで、江戸時代の初めに、坂下の路地を入ったところに七百三十石取りの旗本小栗家屋敷があったことから名付けられました。

所在地 神田三崎町一丁目~神田猿楽町二丁目

 

皀角坂

坂名は、サイカチの木が多く植えられていたことから名付けられました。サイカチは、野山にはえる落葉高木で、 枝にとげが多く、花も実も豆に似ています。現在でも、二本のサイカチの木があり、秋になると豆状の実をつけています。

小栗坂を上りきった所から、神田川沿いにJR御茶ノ水駅の方向に上る坂

所在地 神田駿河台二丁目

 

坂上部にある石碑

以前は「さいかち坂」の文字が読めていたようだが、アスファルトの路面の上に敷石を敷いたためか、彫られた文字の一部が見えなくなっている。

 

昭和五十年一月 
駿河台西町会 
中島萬

イカチと思われる木

 

撮影日 2023年7月24日

橋の上からサイカチと思われる黄色い花が咲いているのが見えた。

豆果もなっていた。

 

撮影日 2023年5月11日

 

キカイ湯跡

1912年 大正元年
銭湯に初のペンキ絵 
ここにあったキカイ湯(明治17年~昭和46年)では浴室の壁に初めてペンキ絵が描かれた。以降、各地の銭湯絵の定番となった。

明治17年(1884)に祖父、東 由松(1852-1917)はこの地に銭湯キカイ湯を建てて開業した。汽船のボイラー(機械釜)を他店に魁けて取り付けたことを記念して店名を付けた。
大正元年(1912)父、東 雄三郎(1880-1953)は、旧店の隣りに新キカイ湯を増築して、その浴室の壁面に新規発想によるペンキ絵を掲げた。公衆浴場史(昭47年発行)に、“……ところが、この絵が満都の評判となり、市内各湯もこれにならって思い思いの絵をかかせて浴客を喜ばせ……”とある。
キカイ湯は、大正12年(1923)の震災と昭和20年(1945)の戦災とに2回全焼したが、その都度復興して営業を続けた。ついに、昭和46年(1971年)に近隣に惜しまれつつ87年間続けた店を閉じた。
このTOHYU(東雄)ビルの名称は、父の名を宿している。
平成4年(1992)3月吉日
東 堯・東 梅子記す
有限会社 新樹これを設置す