歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

「旧和泉町ポンプ所」に解体工事のお知らせが掲示されていた。

近くを通ったら、「解体工事のお知らせ」が掲示されているのに気が付いた。

とうとうここも解体されてしまうのか。

 

訪問日  2023年4月15、22日

訪問場所 東京都千代田区神田和泉町1

 

雨でずぶぬれ。

悲しみの涙みたいだ。

 

この件についてネットで検索したところ、いくつかの記事が見つかった。

千代田区は、旧和泉町ポンプ所解体に伴う設計業務を、三輝設計事務所東京支店(千代田区)に委託した。2023年度の工事発注を見込む。

東京都下水道局保有・管理していた同ポンプ所の土地、建物を千代田区が購入し、既存建物を解体する。

旧和泉町ポンプ所跡地に子育て支援施設を建設する。

 

朝日新聞の3月27日の朝刊に「(まちの記憶)神田和泉町神田佐久間町かいわい 東京都千代田区」という記事が掲載されていた。

 

旧和泉町ポンプ所

正面

大部分はレンガを模した外壁タイルに貼り替えられている。

 

これは以前(2021年11月21日)撮った写真

まだ掲示物が貼られている。

コンクリートブロック塀とその間にある柱は古いものに見える。

 

正面奥の建物

倉庫だろうか?

 

右斜めから

 

建物の右側


左斜めから

 

建物の左側

いつも自転車が置いてある。

 

1922年(大正11年)竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
関東大震災東京大空襲の猛火をくぐり抜け、2017年まで約100年近く活躍した施設だ。

 

下記の掲示物や「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。

 

和泉町ポンプ場の概要

所在地 千代田区神田和泉町1番地

創設  大正11年8月

敷地面積 452.78m2

設置目的 和泉町ポンプ所は、台東区上野三丁目、 千代田区神田松永町神田花岡町、神田練堀町、神田相生町神田佐久間町一丁目、外神田一丁目と外神田三丁目の一部及び神田四、五丁目の汚水(トイレやお風呂で使われた水)を汲んで、浅草幹線により三河島水再生センターへ送水する。
下水道管内に引かれた光ファイバーケーブルを通して約1.3km東北東にある蔵前水再生センターから
運転されています。

計画排水面積 48ha
計画排水量 晴天時 11.920m3/日(25mプール約33杯分)
      雨天時 21.690 m3/日 (25mプール約60杯分)


和泉町ポンプ所の主な設備
非常用発電機:100kVA、 200V (電子レンジ100台分)
汚水ポンプ:口径300mm×揚水量11m3/分×2台
      (33分で学校のプールを満杯にする)
      口径150mm×揚水量2.5m3/分×2台
      (144分で学校のプールを満杯にする)
脫臭設備:活性炭吸着塔 脱臭風量50m3/分

 

和泉町ポンプ所の歴史

明治10年、赤レンガとセメントのモダンな銀座通りが生まれたころ、都市部を中心にコレラの流行があり、全国で13,710人の患者がでました。
東京府明治17年に神田の一部にレンガ積み暗きょの下水道を敷設しました。
いわゆる「神田下水」で、これが東京の近代的下水道の始まりです。
明治33年に東京市に下水道法が制定されて、東京帝国大学教授、 中島鋭治博士が明治41年東京市下水道設計案を作成しました。その下水道設計案に若干の修正を加え、明治41年4月に「東京市下水道設計」が告示されました。
明治44年に「東京市下水道改良事務所」が設置されました。その下水道整備第一期事業で三河島処理区の三河島汚水処分場(現在の三河島水再生センター)浅草田町雨水ポンプ所(現在の日本堤ポンプ所)とともに和泉町ポンプ所は設置されました。東京大震災の1年前の大正11年に誕生しました。

 

和泉町の由来は、ここの地に伊勢津藩の当主、藤堂和泉守高虎の屋敷があって、藤堂和泉守高虎の官位和泉守にちなんで名づけられました。
和泉町ポンプ所はその屋敷跡の秋葉原に近い位置にあり、大正9年から工事が始まり、大正11年8月にしゅん工。
請負者は清水組(現在の清水建設)の清水釘吉でした。

関東大震災と和泉町ポンプ所 

大正12年9月1日午前11時58分 相模湾震源とするマグニチュード7.9の大激震が東京を襲い、ちょうどお昼の支度時間と重なり、各地から火災が発生しました。当初は、井戸水や神田川の水を汲んでバケツリレーで消火を行いました。不眠不休のため消火活動も限界となりましたが、その時、町内のポンプ会社から目黒消防署へ納入することになっていた消防車があったので、それを和泉町ポンプ所に運び、下水の水を放水し消火に成功しました。何波にもわたって襲ってくる火に対して、36時間もの消火活動で守った地域は、佐久間町、 和泉町などの1630戸と神田川の米穀倉庫でした。無事だった1万3千俵のお米は、東京市に提供され被災した東京市民の救済に大きく役立ちました。
 

防火守護地碑の建つ神田和泉町かいわい

秋葉原駅で降り昭和通りを渡って上野方面へ秋 少し行き、千代田区台東区との境になっている通りに入ると、ほどなくして右手に煉瓦で囲まれたこじんまりとした建物が見えてきます。 和泉町 ポンプ所です。竣工は大正11年、今なお現役です。
大正12年9月1日昼少し前に起きた関東大震災に より東京の市街地は見渡す限り焼け野原になってし まいました。 その中に不思議にもぽっかりと焼け残った一画がありました。 それがここ和泉町ポンプ所の界隈です。
近くの和泉公園に 「防火守護」なる石碑が。 以前隣接する小学校内に置かれていたそうです。刻まれ た碑文に「この付近一帯は・・・関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬかれ ました。その名は次の通りであります 佐久間町二丁目 三丁目 四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田三丁目 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部」と、あります。
町内の人たちの消火活動の一部始終を、「おはなし千代田」(千代田区、平成元年)は 「地震の四時間後、神田駅方面から燃えてきた火は神田川南岸まできて、さかんに火の粉を佐久間町 (筆者注 防火守護地の碑文に明記されている地域一帯)に降らせました。この 時、町内の人たちは逃げるより火を消そうと集まりました。 バケツリレーで水をかけ、(中略)火を消しま した。(中略)二日の朝八時ころ、 蔵前方面からの猛火は佐久間町の東側から北側にかけて襲いかかりました。人々は和泉町の東京市の下水ポンプ場の水を利用したり、町内の帝国ポンプが得意先に納入するばかりだったガソリンポンプで、井戸水をくみ集めて放水したりして、午後六時ころ完全に消し止めました」と、 詳細に伝えています。
和泉町ポンプ所へ流入した下水が延焼防止に一役かっていたのです。後に東京府は、この地域を「町内協力防火守護之地」として史跡に指定 (昭和14年)しました。先ほどの石碑は、これを記念して昭和43年に地元有志によって建てられたものです。
(文:立川 玉水)



当時の状況を都立横網町公園内の東京都復興記念館2階企画展示コーナーで春季特別展「焼け残った神田和泉町佐久間町の真実」として紹介されている。

期間:令和5年3月7日(火)から令和5年4月23日(日)

 

神田和泉町思い出マップ」パネル寄贈式について

和泉町ポンプ所において、神田和泉町町会と北部下水道事務所による「神田和泉町思い出マップ」 パネル寄贈式を開催した。
1 経緯
(1)ポンプ所内覧会の開催
大正11(1922)年に稼働した和泉町ポンプ所は、 現存する我が国初のポンプ所の一つで、 同年3月に運用を開始した三河島処理場とともに整備された。翌年の関東大震災では、ポンプ所の水が地域の消火活動に役立ったと言われている。地域のお客さまに、普段目にすることが少ない下水道施設の仕組みをわかりやすく伝え、事業への理解を深めていただくとともに、お客さまとのパートナーシップの充実を図るため、本年6 月、神田和泉町町会と共同でポンプ所内覧会を開催した。
(2)パネルの寄贈
内覧会が契機となり、地域のお客さまとの交流をさらに深める取組の一環として、町会から「神田和泉町思い出マップ」パネルを寄贈していただき、ポンプ所の門扉に掲出する運びとなった。
2 パネル寄贈式の概要
(1) 日 時 平成27年8月21日 (金) 10:00~10:30
(2) 場 所 和泉町ポンプ所 (千代田区神田和泉町1)
(3) 参加者 17名
公益法人(地縁団体) 神田和泉町町会 宮沢町会長 外7名
東京都下水道局 小峰北部下水道事務所長 外8名
(4) 式次第
神田和泉町町会挨拶、北部下水道事務所挨拶、目録贈呈、感謝状授与、 パネル公開

 

思い出マップは、神田和泉町住民の心に残る思い出の風景をイラストにしたもので、まちのシンボルとなっているレンガづくりの和泉町ポンプ所も描き込まれている。

下の絵の火事になっている上の部分に「和泉町ポンプ所」が描かれている。

よく見るとバケツリレーしているところも描かれていた。

 

東京都下水道局のホームページでは「和泉町ポンプ所」のペーパークラフトも用意されていたことがあったそうだが、それも無くなっていた。

 

解体工事は5月18日から始まるらしいので、随時レポートしていきたいと考えている。