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白岡駅と車站之碑

最高気温37℃の猛暑日の中、いつも通り過ぎるだけで、たぶん今まで降りたことがない駅、白岡駅に降り立った。

まず、目に飛び込んできたのはこの大きな碑だった。

発見日  2023年7月12日

発見場所 埼玉県白岡市小久喜 白岡駅西口

 明治維新後、国は輸送手段の一大改革として鉄道建設を推進し、その一環として1885年(明治18)7月、日本鉄道会社により大宮-宇都宮間が開通しました。しかしその際、白岡駅は設置されませんでした。
 そのため、地元有志は交通の利便化と産業の振興を願って、日本鉄道や帝国議会に駅の設置を請願市、駅用地の寄付も行いました。しかし、その後の日露戦争(1904~1905)で設置は遅れ、再三の請願の結果、1910年(明治43)2月11日になってようやく駅が開設されました。駅名は白岡八幡宮から名をとって「白岡駅」とされました。
 「新設白岡車站之碑」は駅開設の5月に立てられたもので、開設までの苦労や、駅開設後に人々が利益追求に走ることを心配する内容などが、久喜の漢学者中島撫山の撰文により刻まれています。また、記念碑の寄付人名には久喜、岩槻、蓮田の人々も含まれ、周辺地域の人々も白岡駅開設に関心の高かったことがうかがえます。
   平成13年6月    白岡町教育委員会

歴史資料展示室にあった資料

訪問日 2023年9月26日

新設白岡車站之記
白岡駅の開業を記念して建てられたこの碑は、本文が漢学者の中島撫山、 篆額は亀田雲鵬の手によるものです。
白岡駅の開設は、当時の日勝村・ 篠津村両村長をはじめ近隣各村も賛同し、数多くの有志からの請願や、6,000坪に及ぶ土地の提供などに支えられて実現しました。銘文には、このようないきさつが詳細に記されています。「この地の民は純朴で農産物が豊富であり、それらの売買・周辺地域の物流のためにも停車場の設置を願っていた」こと、「駅が出来れば白岡八幡宮に参拝に訪れる人々にも便利である」ことを記すとともに、駅開業により利益を求めて入ってくる狡猾や奢りの悪風に、土地の純朴さが失われることを心配しています。「車站」は英語の「station」の中国の訳語で、「駅」「停車場」の意味です。

開設まもない白岡駅



歴史資料展示室にあった資料

訪問日 2023年9月26日


白岡駅の開設
東北線の大宮~宇都宮間は、明治18年(1885)7月に開通しました。開通当初、市域の最寄り駅は蓮田駅久喜駅でした。東北線の複線化情報から明治37年12月、日勝村有志が駅開設の請願書を出しましたが、日露戦争により複線化事業は中断してしまいます。その後の再三の請願により明治43年2月11日、ついに東北線白岡駅が開業しました。新駅の 所在地は字小久喜地内でしたが、「小久喜駅」では隣りの駅の「久喜駅」と紛らわしく、別の名称を考えるようにという南埼玉郡役所からの指導もあって、現在の「白岡駅」になりました。駅の近くにある、古社白岡八幡宮にちなんだものといわれています。

白岡駅開業までの曲折

明治18年(1885)7
日本鉄道東北線の大宮-宇都宮間が開通し、埼玉県内では蓮田・久喜・栗橋の各駅が開設される

明治19年(1886)6
日本鉄道東北線、栗橋の利根川鉄橋が完成

明治37年(1904)12
東北線複線化情報により、小久喜の鬼久保文輔他4名が日本鉄道株式会社社長曽我裕準宛てに請願書を提出

明治38年(1905)8
鬼久保文輔、鉄道用地買収へ動き出す

明治39年(1906)11
日本鉄道会社東北本線高崎線が国有化される

明治39年(1906)11
東北線の複線化に伴い、蓮田・久喜駅の中間地点である当地内に信号所の設置が決定

明治41年(1908)3
鬼久保文輔他174名が署名し、帝国議会逓信大臣宛に「停車場設置の儀につき請願」を行う

明治41年(1908)3
「停車場設置願」の請願が貴族院 衆議院の両議院で採択される

明治41年(1908)6
白岡の細井金之助が、日勝村・篠津村有志と共に共進組合を設立(資本金7,050円 組合員29名)停車場周辺の土地買収・貸付、敷地内家屋の移転、新設道路用地の買収が当面の業務

明治41年(1908)7
関係者からの再三の陳情を受け、鉄道院は鉄道用地の地元寄付を条件に新駅設置を認める

明治41年(1908)8
土地買入手付金支払を開始

明治41年(1908)9
日勝村・篠津村両村の有志20名が発起人となり、村内外有志に対し「寄付募集趣意書」 を発信 停車場必要敷地は 8,742坪、うち6,125坪を帝国鉄道庁に献納、この外に新設道路用地 1,017坪の確保が必要 寄附金総額:5,428円(発起人寄付3,928円 地方有志寄付2,500円)

明治41年(1908)11
用地の買収・家屋移転などを急ぎ進めて、必要敷地の献納が終了

明治42年(1909)5
前記寄付募集発起人を中心に「停車場新設工事御急施の義請願」を鉄道院東部管理局長長谷川僅介宛てに提出

明治42年(1909)10
鉄道当局により建設工事着工

明治43年(1910)2
白岡駅開業

東口には下記の記念碑があった。

白岡駅橋上本屋新設
駅東口広場造成記念

白岡駅は 明治四十三年二月開設以来七十年を経 地域の発展に寄与するところ大であった  白岡町の急速な人口増に伴い老朽狭隘と西口一方乗降のため混雑著しく昭和四十六年十月 日本国有鉄道白岡駅橋上本屋並びに東西跨線人道橋新設を陳情 昭和四十九年八月二十九日東京北鉄道管理局と工事施行契約を締結し昭和五十年十月看工 同五十一年十一月東口跨線人道橋を残し供用を開始した 引続き昭和五十四年七月東口跨線工事に再着手 同年十二月新設工事を完成した
駅東口広場用地は 地権者各位の理解のもとに昭和五十三年十一月買収計画を完了し昭和五十四年九月造成工事に着手 同年十二月竣工  東口跨線人道橋と同時に供用を開始した
当駅東西人道橋並びに東口広場の供用に伴ない白岡町都市施設の充実と健全な発展を念じるとともに広場並びに代替地提供者諸氏を初め協力者各位に感謝と敬意を表し後世に伝えるためここに記す
昭和五十四年十二月十二日
白岡町長 荒井 宏