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1922年の目白駅階段が一部再現!目白駅周辺の歴史に触れる

目白駅から階段を降りると、以前訪問した時はなかったと思われるものがあった。

それがこれらだ。



訪問日 2023年11月20日

目白駅と地域「銀鈴の塔」 エレベーター設置によるバリアフリー化を記念して



白駅周辺は、武蔵野台地の南向きの斜面に位置し、江戸時代には入会地として下高田村と下落合村の農家の人々が共に使う、谷あいの土地でした。西方には湧水源があり、南方に流れる清流が用水となっていました。 この谷あいを整地して、1885(明治18)年3月16日に目白駅 (目白停車場)が開業しました。目白駅は、豊島区(高田町、長崎町、西巣鴨町巣鴨町を合わせて、豊島区が発足したのは1932年10月1日) で、最初にできた鉄道駅です。

た日本で初めて造られた、線路の上に駅舎がある橋上駅は、1922年に改築竣工した目白駅であると言われています。この橋上駅の建造に伴い公道として整備されてきた道筋には、2005(平成17)年に清らかな湧水を偲ぶ 「銀鈴の坂」という愛称がつけられました。「銀鈴の坂」 は、歴史を想いながら親しみ深いまちづくりを目指す、通称名設定がなされた豊島区の区道です。

白駅は、日本鉄道という私鉄の品川・赤羽間を結ぶ路線の中ほどに位置し、品川からは横浜と新橋に接続し、赤羽からは高崎方面に至り、さらに青森までつながる予定の、汽車で貨物輸送をすることを目的とした幹線の駅の一つでした。しかし周辺で近郊農業を営む地域にある目白駅に貨物列車は停まらず、単線を走る1日数便の旅客列車の1885年の乗客数は、1日あたり13人ほどでした。最初の駅舎は、当時、清戸道と呼ばれた目白通りより5mほど低い、このプレートの右手の線路やホームのあるあたりにありました。



がて、東京の都市生活者のための交通網の整備も急激に進み始め、1903(明治36)年には、池袋と田端を結ぶ路線も開通し、品川・赤羽間の路線とあわせて、山手線となりました。山手線は1906(明治39)年に国 有の鉄道となり、1909(明治42)年には電化されました。さらに、山手線を複々線化し環状運転をするための工事が進められ、その工事に伴い、 1922(大正11) 年に、目白駅は橋上駅となりました。目白通りと、小さな広場を介してつながる位置に、改札が置かれました。



白駅周辺には、日本女子大学校(1901年)、学習院(1908年)、目白中学校(1909年)、成蹊女学校(1917年)、自由学園(1921年)、川村女学院 (1924年)、東洋音楽学校(1924年) 等の学校が設置され、地域は学校とともに発展したという特色があります。また府営住宅(1921年)、近衛町(1922年)、目白文化村(1922年) 等の、まとまった宅地開発が始まり、次第に東京の中心部に通勤する人々のベッドタウンとなっていきました。1922(大正11)年の目白駅の乗客は、1日あた7000人を超えています。 



白駅は1928(昭和3)年に、第2目代橋上駅に改築され、関東大震災前後から激増した、郊外に生活の地を求める人々の利用に応えました。 豊島区は、第二次世界大戦末期の空襲で甚大な被害に遭いましたが、目白駅駅舎は、かろうじて焼けませんでした。
1987(昭和62)年に、目白駅は、国鉄の分割民営化に伴いJR東日本の駅となりました。現在の目白駅と目白橋の竣工は、2000(平成12)年です。この時、駅舎にホームへ連絡するエレベーター・エスカレーターが設置され、駅舎内のバリアフリー 化が実現しました。



して本年2020 (令和2)年、豊島区は、目白駅西南の方面からも誰もが安全に目白通りや駅に向かえるように、 またこちらに来られるように、「銀鈴の坂」の下のこの場所にエレベーターを設置しました。名称は「銀鈴の塔」です。塔の上部には、シンボルとなる銀鈴をつり、定刻には音楽を流します。「銀鈴の塔」が、多くの人々に親しまれるエレベーターとなることを願っています。

小さな鉄道遺産
1922年に竣工した目白駅の、コンクリート製の「階段」の一部が右隣に展示されています。骨材の石の大きさが、よく分かります。基礎には、1914年に竣工した東京駅と同じように、水に強い松の長い丸太の杭が、多数用いられていました。



右側面


左側面