徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)上野の忍岡により廟堂を移転しました。寛政9年(1797)には幕府直轄学校として昌平坂学問所と改称され、その後敷地面積を大きく拡大しました。明治維新を迎えると、日本で初めての博物館や東京師範学校などが置かれ、近代教育発祥の地となりました。大正11年(1922)国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災により入徳門と水屋を残して全て焼失しました。昭和10年(1935)伊東忠太の設計により鉄筋コンクリート造りで現在の湯島聖堂が再建されました。
仰高門(ぎょうこうもん)
1975年(昭和50年)中華民国台北市ライオンズ・クラブから寄贈されたもの。
丈高4.57メートル、重量約1.5トンの孔子の銅像としては世界最大だそうだ。
入徳門(にゅうとくもん)
杏壇門(きょうだんもん)
大成殿
説明
寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直 林道春 (羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回祿(火災)の災に罹るや、元祿三年(一六九〇)、将軍綱吉 之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政十一年(一七九九) 大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、舊に復せり。
建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐵筋混凝立構造に依りて原型に復せり。
昭和十一年三月
文部省
昭和十一年三月とあるが、板は新しいので、最近設置されたものだろう。
「孔子」は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
■昌平坂学問所跡
寛政9年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって、「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの 70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山(しばの りつざん)、岡田寒泉(おかだ かんせん)、尾藤二洲(びとう じしゅう)、古賀精里(こが せいり)、佐藤一斎(さとう いっさい)、安積艮斎(あさか ごんさい)、塩谷宕陰(しおのや とういん)、安井息軒(やすい そっけん)、芳野金陵(よしの きんりょう)らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮斎らはこの地が終焉の地となっている。
■近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館(現国立国会図書館)」などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
■現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回もの江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923年)関東大震災で焼失した。今の建物は昭和10年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
昌平坂と淡路坂
神田川を挟んで2つの坂道があります。北側(文京区)の坂は、昌平坂学問所に因んで「昌平坂」と呼ばれ、江戸時代の浮世絵にも数多く描かれています。南側(千代田区)の坂は、江戸時代、坂上の西側に鈴木淡路守の屋敷があったことから、「淡路坂」と呼ばれています。淡路坂沿いの当敷地内の石垣は、岩崎彌之助邸があった明治時代に造られた神奈川真鶴産の小松石の石垣を再利用したものです。「切り込みハギ」と呼ばれる積み方や「江戸切り」と呼ばれる石垣角部のノミ加工など、近代城郭で発展した石垣構築技法を見ることができます。
聖橋から
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地也。南神田川に沿ひて東より西に上る坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ。昔時は之に並びて其西に猶一条の坂あり。之を昌平坂と云ひしが、寛政中聖堂再建の時境内に入り、遂に此坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子聖堂あるからに
いく日湯島にい往きけむはや 法月歌客
文京区教育委員会 令和5年3月
淡路坂
この坂を淡路坂といいます。この坂には、柳生坂、大坂、一口坂などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、これが町名・坂名の由来といわれます。一口坂は、太田姫稲荷が一口稲荷と称したためです。
淡路坂沿いの石垣