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浦和駅開業140周年記念イベント ~ 伊勢丹浦和店編 ① ~

今回は「開業140周年 浦和駅と列車の歴史」①~④までを紹介することにしよう。

開業140周年 浦和駅と列車の歴史①
浦和駅開業!列車は1日4本停車

浦和駅は、1883(明治16)年7月に開業し、2023(令和5)年7月28日で140周年を迎えます。
日本で最初の鉄道が開業したのが1872(明治5)年10月ですから、それから11年後に開業したことになり、これは同時に開業を迎えた上尾、鴻巣、熊谷の各駅とともに埼玉県内初の鉄道駅でもありました。
当初は政府自ら幹線鉄道を建設し運営する、という方針であったものの、国家財政の行き詰まりから、民間による鉄道建設、運営が許可されることになりました。我が国で最初の私設鉄道として1881(明治14)年に設立されたのが「日本鉄道会社」です。会社設立にあたり、首唱発起人に岩倉具視ら16名が名を連ね、当初は東京~高崎・青森間や、遠く九州まで鉄道敷設の計画を立てたことから、「日本鉄道会社」という壮大な社名となりました。
日本鉄道はまず東京~前橋間について、おおむね中山道に沿うルートで開業すべく、1882(明治15)年に工事に着手、まさに突貫工事で翌1883(明治16)年7月28日に上野~熊谷間が開業、さらに10月には本庄まで開業、翌1884年には本庄~高崎・前橋間が開業しました。1885(明治18)年には大宮駅が開業し、そこから分岐する現在の東北本線宇都宮駅まで開業(利根川は渡船で連絡)、1891(明治24)年に上野駅青森駅間が全通し多くの列車が行き交いました。
浦和駅は、開業時は単線で、列車は午前1往復午後1往復のわずか2往復、4本のみでした。上野から熊谷まで、2時間24分をかけて走っていました。

日本鉄道時代の浦和駅職員 1905(明治38) 年頃撮影との記録があるが、日本鉄道が鉄道国有法により国有化される直前の撮影と考えられます。駅社員のみならず「保線工夫組長」と染め抜かれた法被を着た社員の姿も見えます
所蔵:鉄道博物館

 右上写真と同じタイミ ングで撮影されたと推測される写真。記録では当時駅舎は西口側にあり、この写真には駅舎が見えないことから画面外に駅舎があり、画面奥が上野方面と推測されます。 ホーム脇には桜の木が植わっており、 ホーム上には駅名標のほか、トイレや待合用の上屋が見えます。ホームは大谷石を積み上げて作られたものと推測され、これは日本鉄道の多くの駅でみられる仕様です。この時代は複線化されておりホーム2面に線路が上下各1本の構成です

開業140周年 浦和駅と列車の歴史②
国有化、東北本線浦和駅

日本鉄道は開業後も路線を破竹の勢いで開業させ、浦和駅開業から8年後の1891(明治24)年には、上野~青森間が全通します。列車本数も増加し、1892(同25)年には上野~大宮間が複線化され、浦和駅も複線化されています(赤羽~川口間の荒川橋梁を除く)。
日本の鉄道は、開業当初は官設官営を基本としていたものの、明治政府の財政状況の窮状から日本鉄道のような民営鉄道も許可した経緯がありましたが、経済恐慌などで民営鉄道の経営が悪化したこと、また日清戦争を経て国防上の観点などからも官営が望ましいとの意見が強まり、1906(明治39)年「鉄道国有法」が成立。日本鉄道会社も買収され、帝国鉄道庁が所管することになりました。しかしこの時期、鉄道を監督する省庁の度重なる変更などで現業にも混乱が生じ社会問題化したことから、鉄道局と帝国鉄道省を統合した「鉄道院」が1908(同41)に発足。また同年、路線名が整理され定められ、浦和駅東北本線の駅になりました。
また、1912 (同45)年、駅改良工事で有名だった桜の木を11本中1本を残し、2本は移植、他は伐採したとの記録が残っています。
1923(大正12)年9月に発生した関東大震災で、 浦和周辺は大きな被害は免れたことから、他の東京近郊の地域と同様、震災後は都心からの移住先として多くの人が移り住みます。学者、作家、画家なども浦和周辺に居を構えました。これにより鉄道の利用者も急増。そのことは、震災前の1922(同11)年の1日平均乗降人員が5,533人であったのに対し、震災後の1925(同14) 年には8,389人に、1927(昭和2)年には11,016人と急増していることからも知ることができます。

(上)大正初期の浦和駅 。絵葉書の原本には「浦和停車場」と書かれています。明治時代の写真と 比較すると、線路が1本増設されていますが、石積みのホームや屋根は変わっていないように見えます。写真奥が上野方面
所蔵:さいたま市アーカイブスセンターギャラリー

 

開業140周年 浦和駅と列車の歴史③
東口の開設
電車運転開始と東北、高崎線列車の通過

震災後の利用者の急増に対応すべく、1930(昭和5)年12月に西口駅舎を移設新築したほか、ホームの新設、さらに東口にも駅舎を新設し、営業を開始しています。
さらに1932(昭和7)年に旅客線と貨物線を分離する工事が完成、1914(大正3)年から東京~横浜間で電車運転していた「京浜線」は徐々に運転区間を伸ばしており1928(昭和3)年には赤羽まで運転されていましたが、これが大宮まで延長乗り入れする形で電車運転が開始されます。現在の京浜東北線のはじまりで、運転本数は増加しました。
電車運転は開始されたものの、今の京浜東北線東北本線(開始と同時に東北本線高崎線のほとんどの列車が浦和駅を通過することになります。これは、当時の列車は機関車けん引の客車列車が主体で加速、減速共に電車に比べ性能が劣ることから、停車させることで運転できる本数が少なくなってしまうことに起因しています。これ以降、浦和駅京浜東北線の停車駅という時代が続きます。

(上)複々線時代の浦和駅 手前2線は貨物線でホームがありません。京浜東北線と東北・高崎線は同じホームに発着していました
所蔵:さいたま市アーカイブスセンターギャラリー

 

(上)1938(昭和13)年に東京鉄道局が発行した東北本線の上り列車の時刻表。浦和駅に停車する列車は桐生発小山経由上野行きの列車が8時13分に発車するのみ。高崎線からの列車も米原・新潟発信越本線高崎線上野行きが7時03分発、前橋発上野行き7時43分発、桐生発高崎経由上野行き8時13分発の3本が停車するのみで、ほかの列車はすべて 通過を意味する↓ がずらりと並んでいます
所蔵:鉄道博物館

開業140周年 浦和駅と列車の歴史④

(上)1938(昭和13)年に東京鉄道が発行した東北線の時刻表。こちらは下り列車の時刻表で、上り列車同様、通過を意味する↓がずらりと並んでいます。東北本線の列車で浦和駅に停車するのは15時58 分発の上野発日光行き、17時04分発の上野発日光・福島行きの2本だけ。高崎線も15時34分発の上野発前橋経由小山・信越本線経由直江津行き16時44分発の上野発長岡行きの2本に限られていました
所蔵:鉄道博物館

(右、下)1946(昭和21)年の京浜東北線、山手線列車運行表とその一部拡大。赤羽~大宮間には東北・高崎線の列車も同じダイヤに書かれており、朝7時台での運転本数は1時間当たり13~14木が運転されていることがわかります。 浦和始発の京浜東北線も朝夕に時間4本程度設定がありました
所蔵:鉄道博物館

1936年の駅スタンプ。学校や調神社、さくら草などがデザインされており、実に浦和らしいデザインが秀逸です
所蔵:鉄道博物館