歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

柳橋  in 東京都中央区・台東区

撮影日 2023年4月22、29日

 

両国橋から見えるスカイツリー

下を見ると釣りをする女性がいた。

 

両国橋から柳橋を見る。

隅田川を「TOKYO WATER TAXI」が走っていた。

 

中央区側より

 

台東区側より

 

柳橋から眺める神田川の船溜り

 

松屋柳橋

創業明治14年
料亭から旦那衆が芸者衆を乗せ隅田川を行き交う涼み船や投網で採れた魚を天ぷらや刺身にして客に出す船宿を営んでいた小松屋柳橋の料亭のおみやげとして、鮒のすずめ焼きや、江戸前の佃煮を売り出したところ、やがて評判となり、現在も柳橋のたもとで4代目が昔と変わらぬ製法で作り続けている。

 

池波正太郎作品の舞台

浅草・平右衛門町
神田川が大川(隅田川)へ流れ込むあたりに架けら れた柳橋、川沿いの浅草・平右衛門町、江戸時代のこの付近は、池波正太郎作品の舞台としてよく描かれています。川岸には舟が発着する河岸が設けられ、多くの船宿などが立ち並んでいました。
鬼平犯科帳』では平右衛門河岸にある船宿・井ノ口屋が舞台で、宿から出てきた火付盗賊改方の同心・黒沢勝之助と女賊・網虫のお吉、そしてこの二人の様子を注視している黒沢の同僚・小柳安五郎の様子が描かれています。
剣客商売』では篠塚稲荷の筋向かいにある宿屋・ 田中屋が物語の舞台となっています。初代が秋山小兵衛の親友・内山文太の故郷、駿河・田中から江戸へ出て開いた宿で当代の宗吉で四代目です。文太は若い頃、この宿屋にかなり世話になっていました。
このあたりは池波正太郎が好きな風景で柳橋の夜景を得意の絵に描いています。
浅草・平右衛門町は小説のみならず、のちにテレビドラマとして映像化された 『鬼平犯科帳』にも登場しています。

 

説明板が橋の両側の自治体にそれぞれあるのは、珍しい気がする。

 

中央区側の説明板

 

柳橋

柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698) のことで 「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
柳橋」の由来については、
(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2)柳原堤の末にあったことに由来する。
(3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。

平成4年1月 東京都中央区
橋梁の緒元 
形  式 タイド・アーチ橋
橋  長 37.9 m
有効幅員 11.0m(車道 6.0m2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月 (復興局施行)

春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規

 

中央区文化財 柳橋

所在地 中央区日本橋二丁目(神田川
    台東区柳橋一丁目
柳橋神田川隅田川流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、"柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(一八八七)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(一九二三二)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会

 

【全長】 37.9m 【幅員】 11.0m
【構造】 鋼製タイドアーチ橋
"柳橋” は、神田川隅田川にそそぐところに架設されたので、 はじめは “川口出口之橋” あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから“矢の倉橋” と呼ばれていました。 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表する場所になりました。現在の橋は昭和4年(1929) に架け替えられた鉄橋です。昭和初期の震災復興計画の中で、耐震構造に配慮した隅田川に架かる永代橋をモデルに建設されました。中央区では、平成3年度に傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで “かんざし”を飾 り、歩道には御影石を貼って再生しました。

 

台東区側にある説明板

台東区柳橋1丁目1番1号

この橋は、元禄11年(1698年)に、神田川隅田川に注ぐところに架けられ、最初は、「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったことにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」「矢之城を柳の字に書きかえた」「橋畔の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治20年(1887年)で、現在の橋は昭和4年(1929年)に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また柳橋は落語にもよく登場し、「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。

柳橋ゆかりの人々〕

成島柳北
蔵前生まれ。「柳橋新誌」を著した。

小林清親
「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。

正岡子規
句集「寒山落木」の中で、「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。

島崎藤村
今の柳橋1丁目に住み、柳橋を題材にした随筆「新片町にて」を発表し、小説「沈黙」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の「春」「家」などの作品も柳橋在住のときに発表した。

池波正太郎
剣客商売」などの作品で柳橋界隈を取り上げている。

 

旧町名由来案内

浅草柳橋はいくつかの町が統合され、昭和9年(1934年)に誕生した。町名の由来は、神田川隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
柳橋」は、元禄11年(1698年)に初めて架けられた。神田川が大川(おおかわ:隅田川の別称。中央区流域より上流の、墨田区吾妻橋1丁目と台東区雷門2丁目をつなぐ橋・吾妻橋【あずまばし】より下流隅田川は江戸時代、こう呼ばれていました。)にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和4年(1929年)に架けられたものでローゼ形式の橋である。