歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

2023年8月17日探索記録(南古谷駅~上福岡駅)

大きな柳の木の下に石碑が立っていた。

市指定・史跡 新河岸川河岸場跡

 

記念碑

新河岸川河岸場跡の旭橋のたもとに、舟運の歴史を今に伝える記念碑として、昭和50年(1975)4 月に新河岸川河岸場史跡保存会によって建てられた。

川越市指定史蹟 新河岸川河岸場跡
今から三百余年まえ川越城主松平伊豆守信綱が
もと内川といった荒川の支流、新河岸川を改修
して川越と江戸間の舟運を開いた。当初は年貢
米を主としたが、のち、貨客の輸送がふえ旭橋
を中心に上下新河岸、牛子、扇、寺尾の五河岸
には船問屋、商家が軒を並べ 日夜発着の船が
絶えなかった。また、その物資を運搬する車馬
の出入も多く賑わいを極めた。しかし鉄道の開
通により次第に衰微に傾き、いわゆる九十九曲
三十里の舟唄もすべて昔の語り草となった。

 

新河岸川舟唄

〽 九十九曲り
    仇では越せぬ
  遠い水路の三十里

〽 押せよ押せ押せ
    二挺櫓で押せよ
   押せば千住が近くなる

〽 着いた着いたよ
    新河岸橋へ
   主もでてとれおもてもや

説明板

新河岸川舟運の歴史は、寛永十五年(一六三八)
川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がそ
の再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用
したことに始まるといわれる。
 翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、
もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的
に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制
を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、
扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問
屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、
百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮
戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。
当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般
商品も多く運ばれるようになり(江戸行―醤油・
綿実・炭・材木、川越行―油・反物・砂糖・塩・
荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
 現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水
上宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構え
などがあり、往時を偲ばせている。
 昭和五十五年十一月
              川越市教育委員会

 

下新河岸河岸跡に2軒だけ古い建物が残っている。

斉藤米店

この日は営業日ではなかった。

明治4、5年頃建てられたそう。2012年(平成24年)にリニューアルしたそうだ。

 

旧船問屋伊勢安

下新河岸の船問屋だった伊勢安 (齋藤家)には、新河岸川舟運が盛んだったころの面影が残されている。
現在の母屋は平成11年(1999)に改築されたもので、明治3年(1870)4月の新河岸大火以降に再建された母屋と同様の外観を持っている。奥には元禄期(1690年代) に建てられた素麺蔵や、文政期(1820年代)の米蔵などがあり、帆柱などの船具も残されている。

NHKのブラタモリでも紹介されたことがあるそうだ。

 

川越市藤木土地区画整理事業

 

九十(くじゅう)川に沿って歩いていたら、石柱らしきものが見えた。

旧牛子堰

所在地 川越市木野目

牛子堰

大正貮年四月竣工

九十川(新河岸川の支線)の旧流路に残る農業用水の取水堰。

ストリートビューで見ると水が流れているのものがなかったが、田んぼがあるからか、水が流れていた。

九十川排水機場施設

事業概要
平成10年8月の台風4号の影響による大雨は、関東地方に大きな被害をもたらし、埼玉県でも南部と西部を中心に記録的な集中豪雨となりました。 特に、新河岸川流域では、新河岸川と九十川が越水し、3,827戸の家屋が床上床下水にみまわれました。このため、再度の災害防止を目的として、新河岸川と九十川の合流点に排水機場と樋門が設置されました。
九十川排水機場は、新河岸川の水位が高く、自然排水出来ないときに樋門を閉鎖し、九十川の水を新河岸川にポンプで強制排水するものです。これにより、九十川流域の浸水被害が軽減されます。

平成10年8月27日~30日の大雨による浸水区域

被害状況

 

上福岡駅東口側の橋上駅舎の下、駐輪場の一角にある。

2013年(平成25年)2月にこの場所に移設されたようだ。

福岡駅

中武之地土壌豊腴農桑甚盛然交通之便運輸之利尚未開若福岡
邑等葢其尤也邑豪族星野仙蔵君常以為憾衆庶亦慕君徳擧為縣
會議員又為衆議院議員君嘗以功敍勲勲四等■■■■■■■■
用心於農桑■■私貲圖交通運輸二十年偶明治四十二年根津嘉
一郎君等首唱東上鐡道敷設之議根津君亦属衆議院議員勲四等
而其名夙重■實業者間君聞此議欣然曰吾事成矣乃與倶謀議以
克合衆庶亦徳二君争據金獻地經營數年軌路成焉火車通■斯邑
敷一大車站命曰福岡驛驛當東上鐡道襟喉■是交通之便運輸之
利始開行旅群集百貨輻輳衆■舞躍歓呼曰是二君之賜也不反今
建碑紀徳吾■非人也及价人請文于余■不■而叙之仍系叺銘曰
   國曰武蔵 驛曰福岡 鐡路所通 車站有場         
   彼此相濟 民業以昌 勒功貞石 千載傳芳         
大正三年歳次甲寅二月下澣               
        鉄道院総裁正四位勲三等床次竹二郎篆額    
                 従六位勲六等樫田 三 郎 撰    
                     上毛  高松 彦 六 書    

 

福岡駅碑について

大正3年(1914)5月1日に東武東上線の前身・東上鉄道が開通し、上福岡駅が開業しました。「福岡駅碑」は開業前の2月につくられ、表面には東上鉄道の開通に尽力した星野仙蔵の功績を讃える文と漢詩が、裏面には建碑にかかわった人々の名前が刻まれています。
星野仙蔵(1871~1917)は、新河岸川舟運で繁栄した福岡河岸の回漕問屋福田屋の十代目当主で、新しい輸送手段である「鉄道」に注目し、 東京と川越を結ぶ鉄道敷設計画に積極的にかかわりましたが、なかなか実現できずにいました。
明治37年(1904)衆議院議員に当選した星野仙蔵は、同じ衆議院議員東武鉄道株式会社社長でもあった根津嘉一郎と出会い、東上鉄道の敷設にかかわってもらうよう働きかけていきました。
星野仙蔵は、鉄道敷設事業に明るい根津の協力を得て、地域の人々に鉄道の必要性を訴え用地取得にも尽力し、その結果、池袋と川越をわずか1時間で結ぶ東上鉄道の開通を実現させることができました。
鉄道の開通により、この地域の近代化・都市化は急速に進み、人の交流や文化交流も深まり活気あるまちづくりが促進されました。この碑は、駅開設当時ホームに建てられたもので、上福岡駅東口駅前広場の整備に伴ない、この場所に移設しました。
平成25年2月 ふじみ野市

 

上福岡市時代の街区表示板

 

川越市の消火栓のマンホール蓋

 

川越市の家庭ゴミ集積所

 

上福岡市時代のもの

 

コバトン単管バリケード

 

季節外れの紫陽花