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御茶ノ水ソラシティで明治・大正時代の歴史遺産に触れる④ ― 松山堂の蔵 ―

今回は、松山堂の蔵を紹介しよう。

 

7月24、25日に訪問した時は、扉が閉まっていた。

正面

裏側

 

7月29日に訪問した時、扉が開いていた。

 

1階

 

扉裏に「大正拾三年」と書かれていた。

 

階段

 

木窓

 

机の上にバインダーが置かれていて、中を見てみると、いろいろな資料が挟まっていた。

1この蔵がこの場所に建てられるまでの経緯

書籍商・藤井家による上棟
この蔵は、大正6年(1917) に、現在の淡路町で上棟されました。この蔵を建てたのは藤井利八という書籍商で、蔵の2階へ上がると天井の梁にその名が大きく書かれていることが分かります。藤井が営んでいた「松山堂」は、明治41年(1908)「日本全国古本屋見立番附」で小結に番付される程、全国でも屈指の書籍商でした。藤井の娘せきは、蔵の上棟式前年に、美術家・料理家として有名な北大路魯山人と結婚します。魯山人は、当時淡路町に「古美術鑑定所」の看板を掲げ住んでいたことが分かっています。二人は短い間ですが淡路町に住み、住居は利八の貸し家であったといわれています。

震災・戦災の被害と、「淡路町画廊」の誕生
その後、関東大震災・太平洋戦争という二度の大災害を経ましたが、この蔵は奇跡的に倒壊を免れました。その要因としては、戦時中に爆撃を受けなかったことだけでなく、この蔵が、煉瓦造りの分厚い壁を取り入れた、堅牢な建物であったことが挙げられます。震災による多少の損壊を修理した痕跡は見られるものの、耐震性・耐火性に対し、非常に優れた建物だったことがうかがえます。 戦後になると、長谷川公男がこの蔵の所有者となり、昭和58年(1983) には、この蔵をそのまま利用した「淡路町画廊」がオープンしました。これによってこの蔵は、歴史ある建物として保存活用されるとともに、多くのアーティストが作品を発表する場として利用されました。

淡路町再開発に伴う移築
そして、平成22年(2010)になって、淡路町に再開発事業が計画され、この蔵が解体されることになりました。しかしその文化的価値や、地域的資源としての重要性は高いと判断され、蔵の建材を慎重に解体・再組立を行い、現在のこの場所へ移築することとなりました。移築に当たり、この蔵の特徴である煉瓦組積造の構造は、現在の建築基準法に移動 適合しないため、 残念ながら復元は出来ませんでしたが、一部の木材や金属部材については、当時のものをそのまま使用しています。

 

2解体作業

解体の手順
解体では、まず初めに、木材を中心とするすべての建築部材にナンバリングをし、組み立てる際に混乱のないようにします。次に部材を上から順番に外していきます。建築部材の中には、当時の職人の技が垣間見えるものもあります。それらの特徴も壊さないように、慎重に解体を行いました。

姿を現した煉瓦
この蔵は一見すると土蔵のようですが、漆喰をはがしてみると、その下には、黒くて光沢のある煉瓦が積まれていました。煉瓦は、一つ一つ外側に釉薬が塗られた状態で焼かれたものと考えられ、そのため光沢があります。また、目地も「覆輪目地」と呼ばれるきれいな丸みのある凸形の仕上げになっており、外壁全体に美しい仕上げがなされていました。また煉瓦には「サ」や「さ」の刻印が押されたものがあります。この刻印のある煉瓦は、東京都北区にある東京砲兵工廠銃包製造所の中で明治38年(1905)に竣工された建物にも使用されていました。この煉瓦の製造工場ははっきりとはわかっていませんが、二つの建物の間には、何か関連があったのかも知れません。

様々な建築部材
解体をしてわかったその他のこととして、煉瓦を外していくと、煉瓦層と各階の梁材の下には、「沓石」と呼ばれる梁受けが据えられており、これには筑波石が使用されていました。また、蔵の外にL字状にとび出している鋳物の「折れ釘」は、内側に刺さっている部分が、ちょうど煉瓦の長辺にひっかかる長さに揃えられていました。瓦については、昭和30年代頃のものと推定され、創建時のものではありません。

 

3組み立て

小屋組の保存
組み立ての際に、現行の建築基準法の条件を満たすことが出来ないという理由から、すべての復元は断念せざるを得ませんでした。そこで全てを残せないならば、ある程度の優先順位をつけて重要部位から優先的に残す方法を検討しました。部位の中から、小屋を最重要部位と位置付けました。その理由は、牛梁には建築主井利八等の墨書きがあり、その部材の太さや形状から小屋組は貴重な部材で、今日同じ小屋組を同種同材で新しく作ることが困難であったからです。

2階建て建築への変更と、 煉瓦壁の切り出し
小屋を残すために大きく変更を加えた点は、本来の2階部分を1/3程度外して階段の踊り場とし、建物全体を3階建てから2階建てに位置付けを変更したことです。なぜなら、現行建築基準法では3階建ての建物は建築は耐火建築にしなければならず、主要構造部を木のままにすることが出来ないからです。そうすることで、小屋の部材だけでなく、既存の床や階段を当時のまま再利用することが可能となりました。1階の階段手すりにある「擬宝珠」(玉葱の形をした装飾)の装飾も、当時のものです。煉瓦造については、現行基準に適合させようとすると臥梁(注)が必要で、既存と同じ形に作ることはできなかったため、別の方法としてRC造で作ることになりました。そして、約1m四方の煉瓦壁をそのまま切り出して、縦の横に展示して保存することにしました。
(注)…各階の壁体頂部を連続にかためる梁のこと

同種同材の使用と、色調の復元
その他、この蔵では、床と小屋組にはヒノキ、梁材は地松が使用されています。その中の一部は再利用が不可能であったため、新たに使用した木材は、解体前と同種の材としました。しかし木材に茶色の塗料が塗られていたので、同様の色調に整えるため、一部の新材にも茶色の塗料を塗りました。 組み立てに当たっては、今後この蔵を、永く保存可能な形に再構築すると共に、本来のこの蔵の造りや意匠を可能な限り残すことを目指しました。

 

4明治・大正期の蔵と煉瓦の歴史

煉瓦造の蔵の誕生
蔵は本来、火事から貴重品を守るために江戸時代に生まれた、特別な建築物でした。明治の初めには、まだ木造・板葺の家庭がほとんどであったため、火事になると延焼しやすく、明治初年に東京は大火に見舞われました。 その反省を受けて政府は明治14年(1881) 「東京防火令」を布き、これによって新築の際には木造・板葺ではなく、耐火建築への改修が求められ、江戸から続く土蔵造りが多く建てられました。そのような中、明治になって外来の文化が一斉に流入されるようになると、大正期にかけて、これらの建築にも洋風の技術と材料が取り 入れられるようになります。 その一つが、この蔵のような 煉瓦造の蔵です。

煉瓦建築の始まりと発展
煉瓦建築は、早くも安政4年(1857) には長崎製鉄所で採り入れられるようになりました。本格的に建てられるようになったのは、 明治期からです。初めは富岡製糸場のような工場建築において、外国人技師のもとで建造されるようになりました。その後、明治6年(1873) には銀座に煉瓦街が誕生しました。
明治27年(1894) になると、三菱によって開発された丸の内に「三菱一号館」が建設され、その後「一丁倫敦」と呼ばれる煉瓦街が作られていきました。この頃が煉瓦建築の華の時代です。以後、明治から大正期にかけて、洋風建築が続々と建てられるようになりました。

伝統的な職人たちと煉瓦
このように明治から大正に向かっていく中で、経済的に発展し、それとともに煉瓦という新しい建材が、一般にも流通するようになっていきました。 このような流れの中で、藤井利八のような書籍商も生まれていったのでしょう。しかし、そうした時代の西洋化に対して、職人達は江戸で培った伝統の技術を新しい技術の中に取り入れ、様々な趣向を凝らしたのに腕をふるいました。この蔵は、大正6年(1917) に上棟されましたが、そこには、職人による木材の選定・組立技術、また内部の木材装飾への細かな配慮が感じられ、職人達による和魂洋才の心意気を随 所に確認することが出来ます。

 

松山堂の蔵(淡路町画廊)の移築復元


2階

 

階段



3階

 

 

牛梁の墨書き

上棟式

 

          書籍商創業者第三世
大正六年七月十四日 建築主   藤井利八
          松山堂主



         煉瓦工 左官
棟梁 鈴木源次郎 大工  石工
         世話方 鳶方

 

階段

 

お茶ナビゲートにあったパネル