歩・探・見・感

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御茶ノ水ソラシティで明治・大正時代の歴史遺産に触れる① ― 蜀山人終焉の地 岩崎弥之助邸跡 ―

 久しぶりに御茶ノ水ソラシティに立ち寄ってみた。

興味深いものがいくつかあったので紹介することにしよう。

一つの記事で収めようとしたのだが、とても長くなりそうなので、分割してお届けする。

蜀山人終焉の地 岩崎弥之助邸跡

湯島聖堂 昌平坂と淡路坂

③軍艦山 ニコライ堂

④松山堂の蔵

⑤松山堂の蔵の煉瓦 岩崎邸・三菱社の煉瓦

 

訪問日 2023年7月24、25、29、31日

 

御茶ノ水ソラシティ

 

御茶ノ水ソラシティ周辺の地図

 

調べていたら、次の説明板があることが分かった。

しかし、これがなかなか見つからなかった。

御茶ノ水ソラシティの回りを一周したつもりだったが、見落としていたのだった。

ストリートビューで事前調査して、場所を特定することができ、最終探索日にようやく見つけることができた。

それは淡路坂沿いの植え込みの中にあった。

 

蜀山人終焉の地 岩崎弥之助邸跡

 

蜀山人終焉の地
太田蜀山人は名はふかし、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2年(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大阪銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。
明治4年(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。
文化9年(1812)に当地に移り住み、文政6年(1823)に没するまで過ごしています。 

 

大田南畝蜀山人)居住地時代

幕末、目の前に神田川が広がるこの地は数棟の旗本屋敷が並んでいました。 文化9年 (1812)7月、この一画に引越してきたのが大田南畝。本音をパ ロディで伝えた江戸狂歌師の大御所です。 屋敷を「緇林楼」と名付け、最晩年の約10年間は悠々自適のうちに過ごし、死の3日前、浅草へ芝居見物に行くほど元気なものでした。門前には道を隔てて 崖上に太田姫稲荷(後に駿河台南の現在地に移る)がありました。「元宮」と書かれた御神木は今も聖橋横に祀られています。

 

「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」

 

「元宮」と書かれた、江戸時代太田姫稲荷があった場所にちなむ御神木(聖橋横)

一口(いもあらい)太田姫神
一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開創した時江戸城の結界また鬼門の護り神とし旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された
昭和六年(一九三一)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鐵道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり開通時天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鐵道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫


岩崎弥之助邸跡

岩崎弥之助嘉永4年(1851)土佐国の生まれ、明治7年(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。
明治18年(1885)に三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。
弥之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。
また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。
弥之助は文化、芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。 

 

後藤象二郎邸時代
明治初頭

幕末に活躍した土佐藩重臣後藤象二郎は、維新後、新政府の要職につき、明治7年 (1874) には実業界に転身しますが、その頃の邸宅がこの地です。「後藤の洋館」として錦絵にも描かれています。しかし実業界では不振が続き、何かと岩崎家に世話になっていた後藤は、岩崎弥之助・早苗(象二郎の娘)の結婚(明治7年)を機に夫妻を屋敷の一画に住まわせました。 その後、 後藤は高輪の新邸に移ります。

 

岩崎邸時代
弥太郎・弥之助邸時代
明治10年(1877)~明治15年(1882)

この宅地と三菱社創業の岩崎家との関係は、婚姻がきっかけでした。明治10年(1877)、岩崎弥之助名義で駿河台邸をすべて譲り受けることになり、湯島に 住んでいた兄の弥太郎一家も駿河台に移ってきます。こうして東屋敷が弥之助邸、西屋敷が弥太郎邸、横に三菱社の事務所も設けます。その後、三菱社は丸の内に移転しますが、兄弟最初の三菱の東京拠点がこの地でした。

 

弥之助邸時代 明治15年(1882)~

明治15年(1882)、兄弥太郎は下谷茅町の新邸(現・池之端。「旧岩崎邸庭園」として史跡公開の地)に引き移りました。以来駿河台の屋敷はすべて弥之助邸となります。その3年後、弥太郎が亡くなった後、2代目三菱社長に弥之助が就任。屋敷内に「静嘉堂文庫」と名付けた書庫を設け、美術品蒐集にも力をそそぎました。また明治23年(1890)丸の内及び神田三崎町の官有地買収を決断、三崎町には劇場を誘致、住宅開発がすすみます。

 

小弥太邸時代 明治後期~


後に三菱の4代目社長となる岩崎小弥太 (弥之助の長男) が生まれたのはこの駿河台邸でした。小弥太は幼稚園から大学まで、神田川をはさんだ南北が通学圏。東京大学からケンブリッジ大学卒業後、大正5年(1916)に三菱を受け継ぎます。しかし関東大震災で屋敷は焼失。 彼はこの地に住んだ岩崎家最後の住人ということになります。当時の煉瓦塀は、「Gallary蔵」横に積み直され、保存されています。
その後この地には、三菱の体育施設(剣道・弓道武道場)が建設されます。また、震災 後の復興都市計画により、削られた敷地の換地として後に「軍艦山」と呼ばれる三角 地帯が生まれました。

 

「軍艦山―ひみつの遊び場」

岸記念体育会館の施設方針が決定するまで、この場所は子ども達の絶好の遊び場でした。本郷通りにより削られて出来た三角地帯の景観からいつしか「軍艦山」 と呼ばれるようになります。 積み上げられた石垣とその頂上は子ども達にはまさに大きな軍艦。 木登りや草の上で相撲を取ったり、冬は屋敷内の竹を切り、即席のスキー板をこしらえて「竹スキー」で遊び、夏にはセミやトンボを採って遊んでいたといいます。また岩崎邸地下室跡からは、向かいのニコライ堂がよく見え、小学校の図画の時間には、その場所が写生のスポットになっていたということです。

 

岸記念体育会館時代 昭和11年(1936)~昭和39年(1964)

「大日本体育協会」2代目会長岸清一基金により岸記念体育会 館建設委員会が発足し、 昭和11年(1936)、この小弥太邸跡地は三菱武道場であった縁から譲り受けが決定します。 しかしすぐに施設は建設されませんでした。日中戦争勃発により東京オリンピック開催は幻となり、 施設の方針も定まらなかったからです。
ようやく昭和16年(1941)3月に木造事務所2棟が落成しました。戦後になりやっとスポーツも復興、 昭和39年(1964) 念願のアジア初 「東京オリンピック」が開催されますが、 岸記念体育会館は、これに合わせて渋谷に移転しました。

 

岸記念体育会館

 

日立製作所本社ビル時代 昭和58年(1983)~平成18年(2006)

渋谷に移転が決定した岸記念体育会館お茶の水の土地を日立製作所に売却します。 こうして昭和58年(1983) には、地上20階建ての日立製作所本社ビルがお目見え、お茶の水の新しい景観を作りました。 しかしこれも平成18年(2006)に丸の内へ移転しました。

 

御茶ノ水ソラシティ」誕生 平成25年(2013)4月~

平成25年(2013)4月、新しいランドマークとなる「御茶ノ水ソラシティ」が誕生しました。緑豊かな広場や、地下鉄駅と接続した賑わいあるソラシティプラザなど、地域に開放された駅前空間を創出しています。また大正6年(1917)に淡路 町に建てられた蔵を 「Gallary蔵」として復元、明治から残っていた煉瓦塀も再現されています。伝統空間を未来へ伝え、さらに新たな一歩を踏み出していきます。