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京橋の親柱

日比谷公園に京橋の欄干柱があったが、調べていたら、親柱が現存していることがわかったので、訪問してきた。

 

発見日  2022年7月25日

発見場所 東京都中央区銀座一丁目、銀座二丁目、京橋三丁目

 

地図

橋北詰東側の親柱と橋南詰西側の親柱は載っているが、南詰東側の親柱の表示がない。

橋北詰東側の親柱

上の方は枝垂れ桜の葉に覆われている

京橋の親柱
所在地 中央区銀座一丁目二番先・一一番先
京橋三丁目五番先

 京橋 は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
 このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰 の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
 また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(一九二二)の拡張工事でアール・デコ 風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きやうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
 明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区文化財に登録されています。
平成二十二年三月

中央区教育委員会

京橋図書館 郷土室だより 平成元年2月15日発行第62号」によると、これは、当時三鷹村に設置されていた京橋区の小学校の郊外学園の門柱として保存し、昭和四年復興京橋が峻成して、橋南に公衆便所が作られ、一部が芝生になった時、待ちかねていた銀座町会の人々が、その頃は荻窪の玉木彌市氏宅に移されていた石柱を譲り受けて移築したものらしい。

 

 

大正期の京橋の写真

日本だと思えない。

タイムスリップして見てみたい光景だ。

 

橋南詰西側の親柱

京橋は古来より其の名著しる。創架乃年は慶長年間(1596~1614)なるの如し。明暦以降しばしば架換へらし大正11年(1922年)末現橋に改築せしる。この橋柱は明治8年(1875年)石造り架換へられたる時乃擬寶珠欄干の親柱をして橋名の書は明治の詩人 佐々木支陰乃揮毛す係るものなり。
昭和13年(1938年)5月

明治8年(1875)築造された京橋の欄干柱が、大正11年(1922)架け替えの際、日比谷公園内に移設された
当時は、橋名を刻んだ親柱もあったが、昭和9年(1934)京橋の橋台地が整備されたときに京橋跡に戻されてここにある。

 

南詰東側の親柱

京橋親柱の橋銘板

煉瓦銀座之碑

明治五年二月二十六日
皇紀二五三二年
西暦一八七二年
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日

 

煉瓦とガス燈

(1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、 銀座には煉瓦建築がなされ、 街路照明は、ガス燈が用いられた。
床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時の ままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、 明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

 

明治7年に東京にガス燈が初めて点燈された時に、京橋から金杉橋の間に85基のガス燈が設置されたので、京橋は東京のガス燈発祥の地でもある。

 

ここには親柱がなく、案内板が設置されていた。

 

 名称の由来について『新撰東京名所図会』では「京橋川に架する橋にして。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
 橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、『新撰東京名所図会』には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596~1615)に初めて架けられたと考えられる。
 京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38~40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
 なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。

 外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。江戸時代には、比丘尻橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
 その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尻橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には白魚河岸があった。
 京橋川は昭和38~40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。

大根河岸
 大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
 なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。

白魚河岸
 京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716~1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。

薪河岸
 京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれていた。

竹河岸
 竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。

 

江戸時代後期の京橋

 

銀座一丁目交番

所在地 中央区銀座1丁目2番4号

「交番デザインが特徴的で屋根が「京橋」のたもとにあった『ガス灯』の頭の部分をモデルに建築され、地元の昔の面影を残している。」と警視庁のホームページとあった。

1984(昭和59)年竣工 署員から募集したデザインを取り入れ、大成建設の桜井凱昌氏が設計したそうだ。

古い洋館風の煉瓦造りで明治の京橋と銀座煉瓦街を思い起こす雰囲気で、丸窓を中心に、全体に鋭角を排除した造りとなっている。