歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

西町公園と西町小学校跡 in 東京都台東区

西町公園があることは知っていたが、今回初めてちゃんと中に入ったかもしれない。

その中には色々興味深いものが設置されていた。

訪問日  2023年6月12日、9月7、17日

訪問場所 東京都台東区東上野2丁目23-3

西町公園

西町公園は、関東大震災からの復興でつくられた小学校と公園が一体となった学校公園の名残を残す公園。1街区の北半分に西町小学校、南半分に西町公園という形で建てられたのだが、平成に入ってから西町小学校が統廃合でなくなり、跡地には永寿総合病院が建っている。

 

西町小学校之跡

これは公園内ではなく、永寿総合病院にあったもの。

公園内に西町小学校にあったものと思われるものが、園路沿い設置されている。



「友情」と名付けられている少年少女のブロンズ像

裏面

寄付者の方が刻まれている。
それほど古いものではないかもしれない。

西町小学校校歌の碑

春は上野に咲き匂う
桜の花のしるしもて
ここ西町の空高く
同じ名を負いそびえたつ
我が懐かしき学び舎に
日ごとに集ううれしさよ

霞む筑波のむらさきや
白妙映ゆる雪の月
その面影の気高さを
朝な夕なにのぞみ見て
心を磨き、身を鍛え
学びの道にいそしまん

裏面

寄付者の方が刻まれている。

少年少女が花冠を掲げているようなデザインのレリーフ

台座には「至誠・勤労・分度・推譲」刻まれている。

台座の左側面。

当校児童職員小使協力一致
シ父兄ノ賛同ノ下ニ三年ニ
渉リ勤勉努力廃品ヲ蒐集整
理シテ得タル僅少ノ資金ヲ
積蓄シ以テ此ノ像ヲ建設セ

 昭和十四年三月
     学校長 篠原長一

レリーフの右側面。

昭和三十八年卒業生一同

レリーフと台座で年代が異なっている。
「至誠・勤労・分度・推譲」は二宮尊徳の教えなので、もしかすると、もともとは二宮金次郎像だったものが何らかの理由で、その後に上だけ載せ替えたのかもしれない。

小学校とは関係ない和凧関係の石碑もあった。

凧・浪兎
 江戸凧三代
  橋本禎造作
平成五年十一月吉日

傍らの猫を
 撫でつつさりげなく
語るはすべて
 職人の意気

気になった遊具はあまり見かけたことがないキツネ。



ぞうさんの滑り台



砂場にはサルやウサギの顔がついたスツールが置かれている。


ラジオ体操台?

 

古そうに見える水場



トイレの壁面


アシカの曲芸

旧町名由来案内

本町は、寛永の頃(1624~43)には、立花竜斉邸および下級武士屋敷地になっていた。元禄年中(1688~1703)になると、下谷辻番屋敷および大番屋敷が立花邸の北側に造られ、その後大きな変化もなく明治を迎えた。
そして、明治二年(1869)、それまでに俗に西町と呼ばれていた下谷辻番屋敷地を下谷西町と称して起立した。同五年、隣接する柳川藩立花邸および大番組屋敷を合わせ町域を拡大した。
町名の由来は、「御府内備考」が「子細不知」と記述しているのでわからないが、西に開けた町なので、あるいは稲荷町の西にあるからという説もある。
明治四十四年(1911)、下谷の二字を略し西町となった。
昭和三十九年(1964)、本町は東上野一・二・三丁目になった。

 

当町は、江戸時代の万冶年間、九州筑後柳川藩11万9600石の太守立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されてきております。現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め初午祭などが盛大に行われております。

 

東上野西町町会



朝日信用金庫西町支店