歩・探・見・感

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御鷹部屋跡と旧道 in 雑司ヶ谷霊園付近

鬼子母神大門欅並木にあった(たぶん)掲示板を見ていたところ、小学生が書いた記事が載っていた。

その中に雑司ヶ谷霊園の「御鷹部屋と松」のことについて書かれていた。

雑司ヶ谷霊園付近は何回も探索したことがあるが、霊園内を探索したことはなかったので、行ってみることにした。

訪問日 2023年10月7日

1種4A号6側ってどこ?

すぐ見つかると思っていたのだが、遠回りをしてしまった。

ここはさっき通った所だったはずだが、その時は気が付かなかったようだ。

結構目立つところにあった。

さっきはここを通らなかったのかもしれない。

う~ん。

通ったのかなあ?

通っていない?

読者にはどうでもいいことだが、どうだったかな?

どうでもいいことだね。

とにかく見つかった。

御鷹部屋と松

 このあたりには、江戸時代中期の享保4年(1719)以降、幕府の御鷹部屋がありました。
 御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時7、80名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。
 また、鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息したり、食事をとったりしたこともあったようです。
 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は、当時のようすをしのばせてくれます。

この松の木というのはこれなのかな?

写真だとわかりにくいが、葉が青くなく茶色だったので、枯れているのかもしれない。

 

雑司ヶ谷霊園の周辺には下記の説明板が設置されていた。


御鷹方御組屋敷道


この道は明和九 (一七七二)年 『武蔵国豊島郡雜司谷村絵図』 によれば
御鷹方御組屋敷道
と記されており霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことと、その北方約四百メートルに鷹匠や同心などの住 まう約一万五千坪の組屋敷があったことに由来する

御鷹部屋道


この道は明和九 (一七七二)年『武蔵国豊島郡雜司谷村絵図』によれば
御鷹部屋道
と記されており霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことに由来する

鬼子母神

この道は明和九 (一七七二)年『武蔵国豊島郡雜司谷村絵図』によれば
鬼子母神
と記されており音羽道・護国寺裏門から鬼子母神へ通じる道として利用されていたことに由来する