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旧町名&電力プレート 中央区日本橋浜町

日本橋浜町は現存している町名だが、住居表示実施前のものなので、旧町名扱いとしている。

 

中央区日本橋浜町二丁目四〇番地

発見日 2021年9月25日


②ハマチヨ1-7

発見日 2023年1月7日

自分の記録にはなかったので、これは初見のものかもしれないが、確信はない。

 

町名と関係ないが、「ハマチヨ」を漢字にすると「浜千代」「濱千代」になる。
「浜千代」「濱千代」という苗字もあるし、「浜 千代」「濱 千代」という氏名にもなる。

 

中央区日本橋浜町一丁目1番の街区表示板

 

探索途中で史跡を発見した。

賀茂真淵縣居(あがたい)の跡

 

以前は久松町の交差点に近いジョナサンの入っているビルの壁に平成元年七月に設置された説明板があったようで、その以下の内容だったようである。

 

賀茂真淵県居の跡

都指定 大正七年四月
所在地 中央区日本橋浜町一ノ四付近
古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し、元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、縣居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。

あがた居の茅生の露原かきわけて
月見に来つる都人かも

その旧跡は、この地点の北東約百メートルのあたりである。

 

令和四年三月に新しく設置されたこの説明板は、更に詳しいものになっていた。

 

所在地 中央区日本橋浜町一丁目一番付近

東京都の文化財として旧跡指定されている賀茂真淵縣居の跡は、現在の日本橋浜町一丁目一番付近にありました。
賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、古代の古典研究に努め、国学の基礎を築いて大成した人物です。真淵の著名な門人には、本居宣長・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦などがいます。 賀茂真淵は、遠江国敷知郡伊場(現在の静岡県浜松市東伊場)にある賀茂神社神職・岡部政信の子として生まれました。京に移って荷田春満のもとで学んだのち、元文二年(一七三七)に江戸の本郷湯島において居をかまえました。 その後、田安宗武 (徳川御三卿の一人)に仕えて、彼に国学を教えました。
隠居後の明和元年(一七六四)には、信濃国須坂藩堀家上屋敷(現在の日本橋久松町七・八・九十番) 東の山伏井戸と呼ばれる井戸の近くにあった旗本細田家の土地百坪を借用して転居しました。田安家や門人たちの助力もあって住居の完成に至り、田舎風な住居を意味する「縣居」を堂号とし、自身も縣居あるいは縣主などと称しました。なお、この地で、万葉集を注釈した『万葉考』や賀茂真淵国学全体について述べた『五意考』などを著しました。さらに、縣居で歌会なども多く開催されて、その作品は今に伝えられています。

あがた居の茅生の露原かきわけて
月見に来る都人かも

『賀茂翁家集』所収

 

以前の説明板の所在地は「日本橋浜町一ノ四付近」となっていたが、最新の説明板の所在地は「日本橋浜町一丁目一番付近」となっているのが気になるところだが、隣なので両方含んでいたということかな?
書かれている内容より所在地の違いが気になってしまう自分なのであった。

 

歴史

1878年明治11年)11月2日
郡区町村編制法施行により、日本橋区が設置される。
浜町一丁目、浜町二丁目、浜町三丁目

1889年(明治22年)5月1日
市制施行に伴い東京市となる。

1943年(昭和18年)7月1日
東京都制が施行され、東京市東京府が廃止され、東京都を設置。

1947年(昭和22年)3月15日
京橋区と合併して中央区を新設。旧区域内の町名に「日本橋」を冠称。

1971年(昭和46年)4月1日
住居表示実施。

 

地名の由来

昔は海浜の面影を残していたため、浜町の名が生じたといわれていますが、俗称であったようです。(中央区ホームページより)