歩・探・見・感

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田宮の雷電神社におわす瘤神社・疣大権現・疱瘡宮 in 埼玉県幸手市

幸手市を訪問するたびに寄らせていただいているが、今回は一風変わった神様たちを紹介しよう。

訪問日  2023年12月4、5日

訪問場所 埼玉県幸手市中四-二十-十

中世の幸手は田宮庄(たみやのしょう)または田宮町といい、その中心がこの神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説も残されている、幸手で最も古い神社の一つです。田の中に金色の雷神が落ち、これを祠り田の中の宮、田宮としました。
雷神は、水との関係が深く、特に農家の人々の信仰を集めました。
また社の裏には瘤(こぶ)神社・疣(いぼ)権現・疱瘡(ほうそう)宮と書かれた石が建てられていて、皮膚病に悩んだ人々の、素朴な信仰の姿も見ることができます。
この神社は、明治以前は幸手宿の総鎮守でした。

狛犬

普通は、内側に向かい合っているはずだが、ここの狛犬は両方とも右を向いている。

右側の狛犬の片足が欠けている、痛々しい。

左側の狛犬クラウチングスタート体勢。

本殿裏手に今回メインの方たちがひっそりといらっしゃる。



左から見ていこう。

瘤神社


鳥の糞がたらりとしている。

そのまま見過ごしてしまった。

疣大権現



疱瘡宮

正面からだと存在がわかりにくい。

なぜこうなってしまったのかわからないが、こちらの疱瘡宮は石の陰にお隠れになっている。

最初訪問した時はおいでにならないと思っていた。

市内にある寶持寺には、「田宮雷電末社瘤癒神略縁起」というものが収蔵されているそうだ。

寶持寺

食龍興山寶持寺
幸手市北一一二一三二
大本山永平寺(福井県吉田郡)大本山總持寺 (神奈川県横浜鶴見)を両大本山とする曹洞宗の寺院です。本尊は 釈迦如来です。
慶安元年(一六四八)九月十七日、江戸幕府三代将軍徳川家光公より御朱印十石賜りました。
本寺は遠江国榛原郡高尾村(現静岡県牧之原市)の石雲院です。開山は季雲永嶽、開基は幸手城主の一色宮内少輔公深です。
寶持寺という寺号は、幸手城主の公深の法諡「寶持寺殿孝嚴相公大庵主」から名付けられています。
開山の季雲永嶽は、石雲院を開創した崇芝性岱の弟子で、武蔵国へも進出し、法性寺(川口市鳩ヶ谷)や興善寺(白岡市)を 開いた高僧です。寶持寺第二世の太安養康は、その弟子です。 寶持寺は、一色公深の子の石堂四郎義房が、父の菩提のため、太安養康を遠江国から呼び寄せ、明応七年(一四九八)に創建されています。このとき太安養康は、師の季雲永嶽を開山に勧請し、自らは第二世となりました。
太安養康は、一色治部大輔頼氏の三男で童名を力丸といいました。力丸は、合戦に出陣し敵兵七人を討ち取ります。しかし、そこにわずか十四歳の武将がいたことを深く憐れみ、季雲永嶽に弟子入りし、僧となった人物です。 
幸手市教育委員会

田宮雷電末社瘤癒神略縁起

夫当社は往古伊弉諾尊衣を投け給しより顕れ給ふ瘤神也
其後素戔鳴尊の禁制に随ひ給ふ
過て則改に憚ることなかれと邪横の心を改め
今より後世葦原の中津国に於て
蒼生の子孫に疣瘤の煩にて憂る輩
忽ち平癒させん事を素戔鳴尊に誓ひ給し御神なり
其後人皇11代垂仁天皇御宇に当り
御本社裂雷神幸手惣社雷電宮と鎮座し奉りし時
末社に鎮め奉り御本社と倶に天下泰平・五穀成就・国家安全を守護し給しなり
雖然誰として瘤神と唱るものなし
不思議になるかな近世瘤神明らかに現れ給ひ頻に誰唱るとなく
瘤癒神と鎮め祭り奉り
此年殿屋建立成就し 神徳日々に新にして月々に盛んなり
依りて御本社雷電宮信仰の輩は利益を蒙さるはなし
一度再拝の道俗子孫に疣瘤の煩ひなからしめんとの請願なり
尚神験数多有といへども茲に略す

田宮雷電宮 氏子謹白之
丙寅正月

なんとなくわかるような、わからない。

本殿の左側には御嶽塚

紅葉がきれいだった。

麓には稲荷大明神。中腹には猿田彦大神や参明藤開山があるらしいのだが、木に隠れていてわからない。

以前は上まで行けた様であるが、木が生い茂っており、どこが入口だかわからなくなっている。