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幸手市指定文化財『将門の首塚』と東京都指定旧跡『将門塚』

『将門の首塚』といえば東京都千代田区大手町にある『将門塚』が超有名だが、幸手市にも『将門の首塚』があるというので、幸手駅から歩いて行ってきた。

訪問日 2023年11月30日

遠かった~。

浄誓寺(じょうせいじ)

幸手市神明内一四六九

通光山平親院浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。本堂裏手には平将門首塚があります。院号の平親院は、この将門に由来するものと考えられます。さらに寺伝では、境内の薬師堂の薬師如来像は、平親院の本尊で三代目の久信が祀ったとしています。茨城県岩井市には、平将門の守り本尊という薬師如来が存在することから、これも将門と当寺との関わりを示しています。
創立は慶長九年(1604)十月、開基は久念です。久念は広川民部通光といい、和泉国堺(大阪府堺市)で生まれた浄土真宗門徒でした。戦国時代の織田信長石山本願寺との戦いにも参加していましたが、両者の和睦により関東に下ります。
縁あって当地の草庵にたどりつくと、勧められて堂守となり、荒れ地を開墾し農業に専念します。生活を安定させた久念は、堺に戻って妻子を呼び寄せ、ここを安住の地と定めたのです。しかし、ここには浄土真宗の寺院がなかったため、入道して浄誓寺を開きました。
なお、妻の静代は、寺伝によると雑賀衆鈴木孫一の妹です。雑賀衆もまた、石山本願寺合戦では鉄砲を武器に信長に抗戦した門徒です。
埼玉県においては、浄土真宗の寺院が非常に少なく、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』では、十一か寺を数えるにすぎません。このうち、五か寺が幸手市域にあり、浄誓寺もその一つです。なお、明暦三年(1657)四月には、浄誓寺四代目の了山に飛檐出仕の寺格が免許されています。
江戸時代の神明内村には、このほかにも願泉寺西教寺という浄土真宗の寺院がありました。願泉寺は、寺伝によると浄誓寺七代目の子が創立しています。また、西教寺は、浄誓寺の末寺で、創立は寛永十八年(1641)十月、開山は了圓と『新編武蔵風土記稿』にあります。

幸手市教育委員会

市指定文化財(記念物 史跡) 将門の首塚

所在 幸手市神明内一四七〇-一

指定 昭和五十八年三月二十四日

浄誓寺の本堂裏手境内に高さ3m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。一部は後世のものですが、最下部の「地輪」とその上の「水輪」は、江戸時代以前のもので、埼玉県教育委員会発行の『中世石遺物調査報告書』では、その形態から「北葛飾郡内最古の五輪の可能性が高い」と評価されています。このように首塚五輪塔は、平将門と関連する時代の遺物であろうと推測ができます。
この塚には、天慶三年(940)の天慶の乱で、平貞盛藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死した将門の首が埋められたと伝えられています。また、戦死した将門の首を愛馬がくわえて当地まで運び、村人か家来が埋めた塚だという伝承もあります。「首塚の存在とともに、市域には将門にかかわる伝承が残されています。そうした伝承を郷土史家の峰喜代子氏(故人)は、次のようにまとめています。

平将門を祀る「平親院」というお寺(浄誓寺)がある。

・平須賀の小字「赤木」は、将門が首を討たれたとき、その血が木を染めたことに由来する。

・将門を討った藤原秀郷ゆかりの軍配や将門調伏の祈禱に使ったという「松虫鈴」が平須賀の宝聖寺に伝えられている。

・当地に桔梗が育たないのは、愛妾「桔梗の前」の裏切りによって討たれた将門のうらみ、たたりによる、など。

この塚が将門の首塚とする伝承の起源を示す資料に水野隠岐守勝長の家老・水野織部が元禄十六年(1703)に記した『結城使行』があります。 ここでは、江戸から日光道中を北上し、上高野村に差しかかった水野織部が、「ここから一里(約4m)ほど東北の「しく打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」と書く」(原文意訳)と記しています。ここから、神明内の平将門の伝承が、今から三〇〇年以上前の元禄時代に、すでに知られていた古い伝承だとわかります。
平安時代平将門と、幸手との具体的な関わりはよくわかっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。 いわば、同じ郡内で活躍した人物が平将門であったということです。

幸手市教育委員会

本堂裏手へ

あれがそうか。

あれなんて言っては失礼だ。

あちらにおわすのか。



階段を登った所においでになる。


将門の首塚

お酒などが供えられていた。

立ち寄った幸手市郷土資料館に平将門に関する資料があったので、それらも紹介することにしよう。

平将門幸手首塚と伝説


神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3メート ル程の塚があり、頂に風化した五輪塔があります。この塚には、天慶3年(940)の天慶の乱で、平貞盛藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死した平将門の首が埋められたという伝説があります。また、戦死した将門の首を愛馬がくわえて当地まで運び、村人か、あるいは家来が埋めた塚だという伝説もあります。
元禄16年(1703)に水野隠岐守勝長の家老水野織部が記した『結城使行』には、「しへ打 (神明内) という村に平親王将門の墓所があり、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだため、「公達村」と書く」(原文意訳) と記しています。ここから、神明内の平将門の伝説が、江戸時代まで 遡る古いものだと分かります。 

宝聖寺と将門伝説



平須賀の宝聖寺には、平安時代中期(10世紀前半)に東国で反乱を起こした平将門を調伏するために使われた「松虫鈴」と、将門を討った藤原秀郷が使用した「軍配団扇」が寺宝として伝えられています。
このうち松虫鈴は、木立にあった光明院という中世の真言宗寺院で使われたものです。光明院は、洪水で堂舎が流失したため、同院の宥俊が宝聖寺に移住したとき持参したという言い伝えがあります。

「松虫鈴」と「軍配団扇」


幸手市の『将門の首塚』の記事を書くのだから、千代田区大手町にある『将門塚』の写真も載せよう、と思った。

しかし、撮ったはずの『将門塚』の写真を探すが見つからない。

『将門塚』の第六次改修工事が2021年4月26日に竣工した。

それ以前、デジカメで改修前や改修中の写真も撮っていたのだが、最近デジカメを使っていないので、デジカメ本体が行方不明になってしまった。

そして、改修後の去年、結構いろいろ撮ったのに、どこいったんだ。

スマホのカメラの位置情報の設定が外れている時があって、それが原因でこちらも行方不明になってしまった。

探せばいいのだけれど、大量の写真の中から、探そうという気も起らなかった。

仕方ない、撮り直してこよう。

訪問日 2023年12月9、12(夕方)、14日


この交差点を曲がる。



夕方に訪問した時は、木に照明が付けられていて、幻想的な雰囲気。



日中は参拝客が絶えない。


7つの踏石からなる石段は、正面から見ると逆台形の形をしている。
逆台形にすることで上りでは将門公の魅力に惹かれ上がることになり、参拝が終わったあとの下りは将門公の御加護に背中を押されて現世へと戻っていく、まるで物理的な力が働くように心の中に上りと下りで異なる勢いが生まれる、そんな体験になることを願ってこのような形状にしたとのこと。

夕方の将門塚






「故蹟保存碑」と「都旧跡将門塚」

故蹟保存碑
明治39年(1906)に平将門公の復権運動を展開した阪谷芳郎・織田完之らにより、当時大蔵省の敷地内にあった将門塚に建立された。現在の碑は、昭和15年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈が書をものしている。

裏面


階段を登った右側にある看板には歴史的説明、参拝者へのお願いと視覚障害者対応、旧跡に指定された経緯説明の3点がある。



東京都指定旧跡 将門塚

神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。
今を去ること1075年ほど昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平真盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年38歳、世にこれを天慶の乱といいます。
その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。
天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血(こうけつ)をしぼり、加えて洪水や旱魃が相次ぎ、人民は食なく衣なく、その窮状は言語にするものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土と勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火(のろし)であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。
江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達芸者と原田甲斐の殺害された場所でした。 明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和36年(1961)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て令和三年(2021)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。
将門塚は神田明神・創建の地でもあります。 毎年9月彼岸の日には「将門塚礼祭」が執り行われ、5月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿(ほうれんみこし)が渡御して神事が行われる重要な場所です。 将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。

史蹟 将門塚保存会 

江戸総鎮守 神田明神

東京都指定旧跡 将門塚

所在地 千代田区大手町一の二

指 定 昭和四六年三月二六日

平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱) を起こし九四〇年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三〇七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建に際して崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。

令和三年五月
東京都教育委員会

参詣者の皆様へのお願い



改修前にあった説明板の内容も載せておこう。

東京都文化財 
門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は 下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヵ国を平定 自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが 平貞盛藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった 世にこれを天慶の乱という
 将門の首級は京都に送られ 獄門にかけられたが 三日後白光を放って東方に飛び去り 武蔵国豊島郡芝崎に落ちた 大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ちこの場所であり 将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の御霊が祟をなすため徳治二年時宗二祖真教上人は 将門の蓮阿弥陀佛という法号を追贈し 塚前に板石塔婆を建て 日輪寺に供養し さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安期の中期に当り 京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが 遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ 下僚は収奪に民の骨血をしぼり 加えて洪水や干ばつが相続き 人民は食なく衣なく その窮状は言語に絶するものがあった 
その為 これらの力の弱い多くの人々が 将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので 今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある 
このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら 実は郷土の勇士であったことを証明しているものである また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に 弱きを助け 悪を挫く江戸っ子の気風となって その影響するところは社会的にも極めて大きい 茲にその由来を塚前に記す。  
史跡 将門塚保存会 
保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社

東京都指定文化財(都旧跡)
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首 (みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931-946)に活躍され、武士の先駆けとし て関東地方の政治改革を行ないました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。ま たこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輩・神輿が渡御して神事が行われる 重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
千代田区外神田2-16-2 江戸総鎮守 神田明神

東京都指定旧跡 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二 指定 昭和四六年三月二六日
平将門は、平安時代中頃に、関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。かつては将門塚という塚や御手洗池と呼ばれる池がありましたが、大蔵省再建の際に崩されたとされます。徳治2年(1307)遊行寺二世真教上人が塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祭られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りました。明治時代以降、幾多の変遷の後、昭和45年に将門塚保存会などにより現況に整備されたものです。 
東京都教育委員会

門首塚の碑
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治ニ年(1307)に真教上人が将門の 霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。 明治ニ年(1869)より第ニ次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
平成三年三月 千代田区教育委員会

酒井家上屋敷
江戸時代の寛文年間
この地は酒井雅楽頭の
上屋敷の中庭であり
歌舞伎の「先代萩」で
知られる伊達騒動の終末
伊達安芸原田甲斐
殺害されたところである。

右に将門塚、正面中央に千鳥岩、左に頌徳之碑が配置されている。


石畳、太鼓橋を歩いていく。

太鼓橋

太鼓橋の幅は竣工時の2021年が将門公1082回忌にあたるので1082mmとなっている。

太鼓橋の両側、参拝空間の周囲に敷き詰められているのは、階段や石畳と同じ石材からつくられた砕石で、深さ300mmほど敷き詰められ、これを海に見立てているそうだ。

太鼓橋の始まりは石畳に入り込んでおり、その終わりは少しの隙間を残し、参拝空間に届いていない。この入り込み幅は将門公の命日から214mm、隙間は将門公が生きておられた最後の年齢になぞらえ37mmとしているそうだ。
こだわりがすごい!

千鳥岩

千鳥岩の下には、土の交換の証として、茨城県にある将門公終焉の地・國王神社と胴体が埋葬されている胴塚・延命院の土と岩が鎮め物として納められているそうだ。

将門塚保存会 会長 頌徳之碑



将門塚(2023年12月9日撮影)

お花が供えられており、両側には当初いなかったカエルの置物が置かれていた。

2023年12月14日撮影

お供えの花や物が変わっていた。

板石塔婆正面


平将門 蓮阿弥陀仏 

南無阿弥陀仏 

徳治二年

昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が発生した。
同年9月、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し、新しい板石塔婆が再建された。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったもの。

裏面


経緯が記されている。

板石塔婆の背後

五輪塔


裏には小さなカエルの置物がいくつか置かれている。
置いてはいけないはずなので、誰かがこっそりと置いたのかもしれない。

左側面



五輪塔をアップ

以前はパイプで覆われていたこともあったようだが、補強されたのかな。

境界杭

このようなものに興味を持つのはあまりいないだろう。

何を撮っているのだろうという参拝客の視線を感じた。

回りの石をどかして、下がどうなっているか見たかったが、そんなことできるわけない。

真上

十字の線が刻まれていた。

スロープ

車椅子でもお参りすることができるようになっている。


スロープを下ったところでロリータ服を着た女の子を何人か見かけたが、何か催し物でも開催されていたのかな?

この後ろ姿の女の子は外人さんだった。

将門塚の裏側が気になったので、覗いてみる。



将門塚方面



この木立の裏が将門塚



外からお神輿が見えたので、ビルの中に入ってみることにした。



将門塚保存会大神輿



正面



右側面

5月の神田祭の時に史蹟将門保存会会員並びに大手・丸の内町会員約1000名により担がれる大神輿。この神輿は江戸時代に当社のご祭神・平時門命をお乗せした形を 再現したものです。一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」台輪3尺5寸。神田明神と将門塚保存会の監修で6世宮惣により平成17年5月に製作されました。彫刻には平将門公をはじめ将門公に縁の滝夜叉姫、真教上人が刻まれています。神田明神旧蹟地に隣接する将門塚保存会参与法人会員・三井物産株式会社より、東京都指定文化財である千代田区大手町の将門塚を中心とした地域社会との交流・発展と伝統文化の継承を願い、社会貢献の一環として本保存会に寄贈された神輿です。

ビル内の案内図にも将門塚の記載があった。


周辺に設置されている地図類を確認するために歩き回る。

もはや変人。

変人ではない、マニアと言ってほしい。

でもマニア=変人と言えなくもないか。

総合防災案内板①


神田明神の広告?入り

総合防災案内板②


これでは『平将門塚』となっている。

まだ古いビル名が記載されている。

 

これも『平将門塚』となっている。

回りのビルがなくなって、閉鎖中になっている。

こちらは『将門首塚』



この地図は最新


大手町ワンと新しいビル名になっている。

これは英語表記が"Masakado's Tomb"となっている。

塚が"Tomb"?

"Tomb"の意味を調べてみよう。

墓穴、墓;地下納骨所、墓石, 墓碑とある。

日本語での表記は「トゥーム」だそうだ。

読めなかった。

地図によって、『将門塚』『将門首塚』『平将門塚』と統一感がないのを発見、ただそれだけだが、このような違いを見つけるも好きなのだ。

あちこちに『将門の首塚』と言い伝えられてきた遺跡がまだあるようだ。
関東地方
・千葉県市川市大野町「首塚(将門様)」
・埼玉県秩父郡皆野町下日野沢「首塚
・栃木県宇都宮市下ヶ橋町 「首塚(平の神様)」
関東地方以外
静岡県掛川市十九首町「首塚
・愛知県名古屋市熱田区須賀町「「社宮司社」
岐阜県大垣市荒尾町「御首神社」
岐阜県可児市中恵土「首塚
滋賀県彦根市清崎町「将軍様
滋賀県愛荘町石橋「 山塚」
など

関東地方にあるものは、探してみたい気になる。