歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

賃取り橋だった旧共和橋と中川からの夕景 in 埼玉県三郷市

2023年12月7日、12月だというのに暖かい日(さいたま市の最高気温18.3℃)であった。
でも、風が強かったので、それほど暖かさは感じなかった。

結構日差しがあったので、日傘を差していたのだが、風が強く早々に閉じてしまった。

帰る途中に彦成小学校内にある彦成小学校講堂記念館(市指定文化財)に寄ることにしていた。

以前訪問した時は開館日ではなかったため、入れなかったが、この日は開館日だったので、入館することにした。

しかし、着くのが遅くなり、閉館時間が16時なので、30分くらいしか見学時間がない。

係の人が「何か説明しましょうか?」と言ってくれたが、「大丈夫です。」と言って断るが、いくつか説明してくれた。

まず航空写真を引っ張り出してくれた。

この写真を見て「何かの形に見えませんか?」と聞かれた。

わからなそうな顔をしていると

「人の顔です、ここが首で、ここは西に向いている横顔です。」

「言われてみるとそう見えますね。そう言われているんですか?」

「いえ、私が言っているだけです。(目の辺りを差して)中川の土手に上ると、富士山が見えます。」

そのあと、かつてあった橋と舟について説明してくれた。

水と人のかかわりと暮らし
水運と橋
江戸川と中川に挟まれている三郷市域では、陸路よりも水路を使った交通が盛んでした。江戸時代においては川を渡る際は舟で渡るほうが簡単でした。
三郷市域をはさむ江戸川、中川でも渡し船による交通が発達していました。市域には江戸時代から昭和半ばまでで21の渡し場がありました。
江戸時代から全盛を築いた渡し船による水運は、架橋、陸路の整備、自動車の普及などによって昭和期に次々と姿を消していきました。
かわりに橋を含む道路、鉄道などの陸運が隆盛していきました。
昭和前期に架けられた三郷の橋として代表的なのが、共和橋(昭和5年架橋)と八条橋(昭和2年架橋)です。どちらもはじめのうちは渡る際にお金をとったので、賃取り橋といわれていました。





共和橋沿革史
昭和2年10月16日 
架橋組合創立

昭和2年10月30日
共和橋が架橋される (工事費11,264円49銭)

昭和2年11月1日
賃取りを開始する

昭和12年
架橋組合から彦成村管理となる

昭和22年
大修理を実施

昭和29年
大破のため架け替えする (工事費240万円)

昭和43年6月 1日
賃取りを廃止 歩行者・二輪車のみ通行となる

昭和56年3月16日
老朽化のため通行禁止となる

昭和56年4月1日
首都高速道路建設に伴う新共和橋開通する (総工費22億円)
旧共和橋撤去される

共和橋渡橋料金(昭和40年当時)

・徒歩(中学生以下半額) 3円
・自転車         5円
・牛・馬        10円 
・リヤカー付き自転車  15円
小型自動車(積載時) 35円
中型自動車(積載時) 50円
~市史編さん係編集 「葦のみち」より~

この日の入館者は自分一人だけだったそうだ。

平日だったからかもしれないが、ちょっと駅からは遠いし、小学校だから、駐車場もないし、仕方ないかもしれない。

閉館時間になったため、お礼を言って退館し、富士山が見えるかなと中川の土手を登ってみた。


空に輝いている雲を見上げる。

自分には4本の足を持つ動物のように見える。ここが顔で、といつものように形を想像してしまう。

対岸の建物に隠れているのか、見る方向が間違ったのか、富士山は見えなかったが、夕焼けがキレイだったので、土手から写真を何枚か撮ってから、帰途に着いた。



ガス管の橋