大宮総合車両センター沿いのレールウェイガーデンプロムナード(1)を投稿してからずいぶん経ってしまった。
(1)では展示されていた写真のパネルを紹介したが、今回は、実物たちを紹介することにしよう。
2024年2月27日再訪する機会があったので、少し写真を追加した。
訪問日 2023年6月27日、2024年2月27日
鉄道博物館ルート①
鉄道博物館ルート②
①と②で載っている写真が異なっていた。
ガードレールが新幹線の形をしている。
壁に影が移っている。
付近の地図
この「大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
大規模な車両の点検整備や建造のための自社工場を持っていなかった日本鉄道が、上野 - 青森間の全通を機に自社工場の必要性が高まったことから1894年(明治27年)に現在の場所に設立した。
「EF15168」と「EF58154」
プロムナードの中間地点あたりに「EF15168号機」と青大将色に塗装された「EF58 154号機」の2台の電気機関車のカットボディが展示されている。
2024年2月27日の状況
正面が囲で覆われていた。
中を覗いてみると、整備中のようだった。
準鉄道記念物 D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20)までに民間工場をはじめ国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13)4月から1942年(昭和17)3月までに、当時の社会的な要請に対応して3個両製造したが、このD51187号機は、そのうちの第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13)4月12に着工し、同年 9月8日に完成した。当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造に当り、その構成部品の全てを工場独自のカで製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄へ向っての自覚を具現する象徴として、この地に長く保存することになり、1971年 (昭和46) 10月14日準鉄道記念物に指定された。
配置区所及び使用線区
東京鉄道局田端機関区 山手線及び常磐線
大阪鉄道管理局姫路第1機関 東海道、山陽本線
米子鉄道局浜田機関区 山陰本線
総走行距離 1,866,822 Km
(地球と月の間を2往復半した距離)
主要性能
機関車重量(運転整備)125.10 t 使用圧力14.0Ks/emi
(空 車) 88.80 t 動輪直径1,400mm
全 長 19,730 mm 最高運転速度(許容) 85Km/h
高 さ 3,980 mm
シリンダ (直径×行程) 550×660mm
東日本旅客鉄道(株)大宮総合車両センター
2024年2月27日再訪したので、この蒸気機関車については、また別な記事で書きたいと考えている。
「旧大宮車両センター倉庫8号」
大宮工場の敷地内で倉庫8号と呼ばれていた。現在はフィットネスクラブ(JEXER大宮)の倉庫として利用されている。
竣工:明治30年 (1897)
構造:煉瓦造2階建
場所:埼玉県さいたま市大宮区錦町91
煉瓦はイギリス積みとなっている。
フィットネスクラブの南側には「日本鉄道大宮工場」時代の煉瓦造の門柱がある。
ブロック塀で埋められており、門として機能はしていない。
鐘塚公園へ移動する。
白井助七翁之像
大宮維新の人
旧大宮市百年の繁栄を築いた先達者の白井助七翁の偉大な業績とその存在を忘れてはならない。
翁は天保12年12月大宮宿大門に生まれ家業の甘藷、肥料問屋を営んでいた。
明治16年日本鉄道会社によって上野から熊谷間に鉄道が開通したが大宮に駅は出来なかった。
丁度その頃商工業の発展には駅は必要だと、白井氏は大野伝左衛門、矢部忠右衛門、岩井右衛門八等と共に駅の必要性を説き、そのために必要な土地、資材の提供を申出て熱心な請願運動を展開した。その努力が実り明治18年大宮駅が開設され鉄道の街大宮への第一歩がふみ出された。
その後これにとどまることなく明治25年更に日本鉄道会社の鉄道材料工場建設誘致の運動を展開、これが実って大宮に工場が建設され当時大宮は活気にあふれた。
駅、鉄道工場、街づくり、道路づくりに伴い、仲間と共に土地資材を提供し、鉄道の街大宮の発展に大きく貢献した。
又、鉄道会社より贈呈された謝金を小学校の校舎建築資金に寄贈し、文教の充実にも寄与した。こうした数々の功労により明治28年推されて第3代大宮町長に就任、惜しみなく町政に力をつくした。激務であった町政の執務遂行中逝去された。時に明治29年5月、享年58歳であった。
平成14年6月吉日
白井助七翁顕彰胸像建立実行委員会
胸像制作者
木村博昌