ごく最近、はてなブログで予約投稿ができることを知った。
随分前の2014年5月にリリースされていたようだ。
知らなかった・・・。
いつも時計を見ながら、投稿していたのに。
ちょっとよそ見をしていると、時間が過ぎ、また1時間待つことになる。
これがちょっとしたストレスだった。
別に正時に投稿しなくてもいいのだが、途中から変なルールを課してしまったのだ。
待ちきれず、正時に投稿しないこともあった。
もうすでにこの機能を利用させてもらっているが、便利だ。
これで、タイムキーパーから解放された。
自分が持っている地図には「壱丁目」しか載っていなかったが、いつの間にか「壱丁目」が東・西・南・北と大字壱丁目に分かれていた。
発見日 2024年3月4日
発見場所 埼玉県上尾市一丁目北
「大字1丁目」?
何か抜けているんじゃない?
と思うのが普通だ。
でも、正しいのだ。
壱丁目村から来ているので本来は「壱丁目」が正しいのだが、「壱」は「1」だからいいのかな。
地名の由来
「大谷郷一町免」から転じたと云われている。
「宮前」は壱丁目北に鎮座している愛宕神社からきているのだろう。
歴史
1986年(昭和61年)10月8日
大谷北部第一特定土地区画整理事業の完成により町名地番変更を実施、大字壱丁目の一部が大字大谷本郷、大字小泉、大字谷津、大字今泉、大字弁財、および弁財一丁目の各一部と併合して今泉一丁目が成立する。
2005年(平成17年)9月17日
大谷北部第三特定土地区画整理事業の完成により町名地番変更を実施、大字壱丁目・大字向山・大字大谷本郷・大字川の一部から向山一丁目 - 四丁目が成立。
2020年(令和2年)11月21日
大谷北部第四土地区画整理事業の換地処分が前日に行われたことに伴い、町名地番変更が行われ、大字壱丁目・大字小敷谷・大字地頭方・大字今泉・大字向山・大字大谷本郷の各一部から壱丁目南・壱丁目西・壱丁目北・壱丁目東および今泉四丁目・向山五丁目が成立。
約4年前に成立した「壱丁目東・西・南・北」だが、東・西・南・北を一通り探索してみたものの、今ところ発見できた小字付きのものは、紹介したものだけ。
これだけだと寂しいので、壱丁目東・西・南・北の表示板、交差点などを紹介することにしよう。
町名地番案内図横バージョン
町名地番案内図縦バージョン
最小番地と最大番地の表示板を探してみた。
壱丁目東
壱丁目東1
37の表示板は見つからなかった。
壱丁目西
壱丁目西1
西18が最大なのだが、17、18は見つからなかった。
壱丁目西16
壱丁目南
壱丁目南1は見つからず。
壱丁目南2
壱丁目南32
壱丁目北
壱丁目北1
壱丁目北24
旧番地のものがまだ残っていた。
交差点
壱丁目西
壱丁目南
壱丁目北
壱丁目東の交差点は無いようだ。
バス停
愛宕神社(上尾市壱丁目三四六—三)
御祭神・・・軻遇突知命、素戔嗚尊
当地は『風土記稿』に「検地に大谷郷一町免とあり、則この地のことなり」
とあるように、かつては大谷郷に属し、壱丁目は一町免の転である。
一町免とは中世の新補地頭の得分である免田を示すという。また、地内にはかつて宿次の小字名があり、昔松山(現吉見町)からの馬継ぎのあった所と伝える。
社蔵の文書には、「明和二亥年(一七六五)二月吉辰奉納ノ古剱 (剣)トアリ」 との記述が見えるが現在は所在不明である。また『風土記稿』では壱丁目の神社について 「氷川社 村の鎮守なり、西光寺の持、愛宕社 村民の持」と載せている。
明治初年の社格制定に際して、氷川社が無格社とされ、愛宕社が村社に列せられた。その後、合祀政策に基づき、当社を向山の神明社へ合祀する命令が 発せられたが、明治四十一年に社掌(宮司)福田弥吉・氏子総代橋本桂介・松澤久五郎の三名が「上申書」を村役場に提出して合祀を免れた経緯がある。
拝殿の内部には、明治から昭和にかけてのおびただしい数の「拝み絵馬」や 「向かい天狗の絵馬」が掛けられていて、当社に寄せられた厚い信仰を物語る。
本殿は小規模ながら、江戸中期の見世棚造りで貴重であり、かつては麻疹を治す神様として近郷に知られ、生後間もない赤子を本殿の下をくぐらせ、子供の無事成長を祈念したものである。
かつての当社は、境内の一角に樹齡五〇〇年を超えると推定される杉の神木がそびえ、鬱蒼とした雑木林の中に一段高く盛り土された所に鎮座していたが、平成十八年(二〇〇六)に上尾道路建設のため、東側の隣地である現在地に社殿等一切を新たに建立し移転遷座した。
境内社に「稲荷社」「雷電社」「天神社」「八雲社」「琴平社」「機神」 「草神」を祀り、鳥居東には地内より集められた「庚申塔(青面金剛)」を祀っている。
庚申塔
"聞かざる"と"言わざる"の間に〇丁目村という文字が見える。
欠けていてわかりにくいが、「壱丁目村」ではなく「一丁目村」と彫られているように見える。
上尾市観光協会に展示されていたもの。
UDトラックス(株)があるあたりなどにはまだ「大字壱丁目」が残っている。