歩・探・見・感

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旧町名&琺瑯住所プレート「麹町區富士見町」と電力プレート「フジミ2-5」

①は随分前に発見していたのだが、ブログ開設前に発見していたので、過去の記事を確認してみたが、紹介していなかった。

確か、これは目撃情報を頼りにせず発見したものだったような気がする。

行き止まりの路地の一番奥にあるというたまにあるケース。

奥が見えている路地は入りづらいのだよね。

今回紹介しようと思ったのは、新たに②の電力プレートを発見したからだ。

設置してあったお宅に見覚えがあったが、以前は気が付かなかったようだ。

このような見落としもたまにある。

それでは紹介を始めることにしよう。

琺瑯住所プレート「麹町區富士見町壱丁目四番地七」

発見日  2020年1月4日

発見場所 東京都千代田区富士見一丁目



②電力プレート「フジミ2-5」

発見日  2024年3月14日

発見場所 東京千代田区富士見二丁目



町名由来板:富士見一丁目

この界隈(かいわい)が富士見(ふじみ)と呼ばれるのは、文字通り、町内から富士山の雄姿(ゆうし)が眺められたことに由来します。九段坂(くだんざか)を上りきった台地に位置する富士見一丁目(ふじみいっちょうめ)は、まだ高いビルがなかった時代には、どこからでも富士山がくっきりと眺められたといいます。
日本人にとって富士山は古くから特別の山でした。とくに江戸時代には、富士講(ふじこう)といって富士山信仰がさかんに行われていました。江戸時代の絵図を見てみると、「富士塚(ふじづか)」と呼ばれる遥拝所(ようはいじょ)が、町中に数多く見つかります。当時の人たちにとって、富士山はそれほどありがたい山だったのです。
ここが富士見と呼ばれるようになるのは明治時代に入ってからのことです。江戸時代、武家地には正式な町名はありませんでした。この界隈も、旗本(はたもと)が多く住む武家地だったので、明治五年(1872年)になって、はじめて富士見町という名前が付けられたのです。
当時の富士見町は靖国神社(やすくにじんじゃ)から九段までを含むかなり広い地域を指す町名でした。区分けも一丁目から六丁目まであり、現在の富士見一丁目は、富士見町六丁目と呼ばれていました。しかし、昭和八年(1933年)の区画整理のときに、飯田町(いいだまち)二丁目、三丁目、六丁目の各一部を含んで町名が富士見町一丁目に変わり、昭和四十一年(1966年)の住居表示の実施にともない、「町」が取れて現在の富士見一丁目となりました。
都市化が進んだ今でも、見晴らしのよい場所からは天に向かってそびえる富士山の姿を眺めることができます。

町名由来板:富士見二丁目

江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈(かいわい)は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時、武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町(どてよんばんちょう)、裏四番町通(うらよんばんちょうどおり)などと呼称が付いていただけでした。「富士見(ふじみ)」という町名が生まれたのは明治五年(1872年)のことで、九段坂(くだんざか)を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。九段坂を上りきった台地(現在の靖国(やすくに)神社周辺)に富士見町(ふじみちょう)一丁目~六丁目が誕生しました。
昭和八年(1933年)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。同じ年、富士見町五丁目と飯田町(いいだまち)六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。そして昭和四十一年(1966年)、住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。
現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮をはじめ、衆議院議員宿舎など、名のある建物が多数存在しています。また、大学や病院など教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。