歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名の痕跡「市兵衛河岸」

今後当ブログのタイトルに「旧町名の痕跡」と書かれていたら、表札や電力プレートなど世間一般で認知されているものとは異なるものを紹介しているのだと思っていただきたい。

既にそういう意味の「旧町名の痕跡」を紹介しているが、タイトルでは特に区別していなかった。

表札や電力プレートなど以外にも、公園名、学校名、交差点名などいろいろなところに旧町名の痕跡が残っているが、それらを旧町名として紹介するのは憚れていた。

街中には完全に消滅してしまった旧町名もあるが、公園名、学校名、交差点名などに残されている旧町名を見かけることがある

この基準を作ろうと思ったのは、折角残されているのだから、その痕跡を紹介してみたいと思ったからである。

そして、表札や電力プレートだけでは、いずれネタ切れになる可能性があるので、もっと幅広く旧町名の痕跡を開拓していく必要があると考えたのである。

ここで宣言しておけば、宣言は大げさだが、公園名、学校名、交差点名などに残っている旧町名を紹介しやすくなる。

まあ、自分のブログなのだから、このように宣言する必要もないのだが、自分でそうしたいだけなので、当ブログではそうしておく。

新基準の第一弾が「市兵衛河岸」となる。

歩いていて、たまたま見つけたもので、このような基準を作ろうと思ったきっかけになったものというだけで、それ以外の意味は特にない。

撮影日 2024年3月25、26日

両日とも雨、特に26日は風もあり、探索することをやめようと思ったのだが、再び取材せよと頭が言い、足が動いてしまった。

神田川 市兵衛河岸 防災船着場



左右に設置されていたプレート。

右側は"市兵衛河岸船着場"と書かれているが、左側のは読めなかった。

水道橋の上から見る。



後楽園ブリッジの上から見る。


左側中央付近に見えるのが、船着場。

水道橋駅ホームから(撮影日 2024年3月28日)

蓋みたいものが2つ見えるが、なんだろう?

点検口みたいなものだろうか?

左側の蓋の右側にアルファベットみたいな文字が書かれているように見える。

何と書いてあるのだろう?

気になって調べてみたが、よくわからなかった。

説明板

河岸とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場(ものあげば)などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2-1-18あたりに“岩瀬市兵衛”の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。
 この河岸は、昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった“砲兵工廠”の荷揚場(にあげば)としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は、昭和39年住居表示の施行により、後楽1丁目となり、この名は消滅した。

平成元年3月

延寶年中之形(一六七三~一六八一年)

以前は色がついていたようだ。
青:神田川・江戸川 
紺:神田上水 
赤角:岩瀬市兵衛の屋敷

調べていたら、谷端川(やばたがわ)というかつて豊島区および北区、板橋区、文京区を流れていた河川の最終地点がこの船着場付近かもしれないとのこと。
水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下で神田川に注いでいたらしいのだ。
仙台橋という橋は今はないが、Wikipediaに東京砲兵工廠を1930年(昭和5年)に撮った写真があるのだが、そこに写っているのが仙台橋らしい。

ちょうど今の船着場の辺りを水道橋駅から撮ったもののようだ。

確かに川が流れており橋もある。

全然関係ない話になってしまったが、興味をそそられたので、追記してしまった。

旧町名案内が2枚設置されていた。

小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で、水道橋から船河原橋までの河岸地である。『江戸砂子(えどすなご)』(享保11年・1732)に牛込御門(うしごめごもん)の外なり。岩瀬市兵衛の屋敷があるゆえにいうとある。この市兵衛から町名をとった。
 昭和15年の改正で、市兵衛河岸を分けて、一部は小石川町1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて、残地がわずかに残った。
 神田川昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。東京砲兵工廠のあったところは工廠用の貨物が上げ下ろしされた。

文章は同じだが、地図が逆になっていた。


付近の地図



外堀通り沿い、飯田橋駅に向かう途中、高速道路の下に枯山水ではないが、歩道の両側に石が並べられている。

結構立派な石もある。

説明板はないが、これらは何を意味しているのだろうか?