歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

港区探索中に発見した復元された石垣と神明小学校跡

港区を探索していたところ、ビルの植え込みの中にプレートをいくつか発見した。

今までも近くを通ったことがあるはずだ。

それらを撮ったことを忘れているか、気が付かなかったかのどちらかなのだが、今となってはどうでもいいことだ。

どうどうと開き直ろう。

新たな気持ちで撮り直してきたので、それらを紹介することにしよう。

訪問日 2023年11月18日

神明町町家跡遺跡

所在地 東京都港区浜松町1-18-16

東京都港区浜松町一丁目、かつてこの辺りは旧東海道一現在の第一京浜国道を挟み相対している芝大門一丁目とともに、「神明町」と呼ばれていた町人居住地でした。 昭和62年、この地が約330年振りに大きく再開発されるにあたり、神明町当時の町並の様子や、この地に住んでいた町人の暮しぶりを記録に留めておくために、地中に残されていた遺跡の発掘調査が実施されました。
発掘調査は約4か月におよび、排水用の木樋、地割に用いた石垣、長屋の基礎、井戸跡、土蔵造りの基礎などの遺構や、 陶磁器、漆器などの生活用雑器、寛永通宝に代表される貨幣、釘やかすがいのような建築用材など、多種多様な実に多くの遺物が出土しました。
このたび、住友浜松町ビル建設用地の一角に石垣の一部が移設復元されました。ここに使用されている石は、いずれも遺跡で検出された石垣に用いられていた間知石です。都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメント が、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。
(文・東京都港区教育委員会)
設置者 住友不動産株式会社

移設復元された石垣

赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

所在地 東京都港区浜松町1-6-7




プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨国(現、兵庫県) 赤穂藩森家の上屋敷でした。
北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地との境に構築した境堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。
石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認された所もありましたが、江戸時代前半の構築当初の姿をよく留めています。
ここに用いられている石垣石は、主に境堀に使われていたものです。

(文責:港区教育委員会)

平成24年(2012)7月

境堀石垣が構築されていた頃の地図

港区立港郷土資料館蔵 「安永手書江戸大絵図 乾」 より

プラザ神明建設用地内で発掘された境堀石垣の様子

全長約29m(最大高さ約3m)

岡山備中新見藩の石垣

所在地 東京都港区海岸1-2-20


この石垣は江戸時代初めにつくられた岡山備中新見藩(関家)の屋敷(1661~1855)の護岸に築かれた石垣で、この敷地内から出土した石を再利用したものです。

神明小学校跡

所在地 東京都港区浜松町1-13-1

大正2年(1913年)「東京市神明尋常小学校」として開校。
平成7年(1995年)御成門小学校に統合されて廃校。

御成門小学校開校由来碑

右下に神明小学校が載っている。

廃校後、再開発され、保健福祉複合施設「プラザ神明」、マンション(シティハイツ神明)やビル(ホワイトタワー浜町町)が建っている。

神明小学校記念碑



記念碑の裏面には校歌が刻まれていた。


神明小学校校歌
 作詞 佐々木信綱
 作曲 弘田竜太郎

一 われら幸あり神明の
  学びの窓に手をとりて
  平和と自由ひとすじに
  文化の道を日ごと進む

二 われら幸あり日本の
  栄えゆく世に生まれきて
  東京港を富士のねを
  心と学ぶ広く高く

   パワー
神明  80  よ永遠に
  創立大正三年
    (一九一四)
  閉校 平成七年
    (一九九五)

石碑案内板


平成7年3月まで、この土地に80年の歴史と伝統を持つ港区立神明小学校がありました
大正3年東京市神明尋常小学校として開校以来、関東大震災による校舎焼失、戦争による学童疎開など、さまざまな困難を乗り越え、数多くの子供たちがこの学校を巣立っていきました。

建物の反対側には校舎改築記念碑がある。



ケースの中には日時計