歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

新宿区にある仮小学校跡地を訪ねる

こどもの日に因んで小学校ネタをひとつ。

ここで疑問が発生。

こども、子ども、子供、どう書くの?

正解は「こどもの日」。すべて平仮名の「こども」。

グーグルマップを見ていたら、市ヶ谷駅付近に「洞雲寺由縁碑」(東京最初の小学校、番町小学校発祥の地)、飯田橋付近に「東京府仮小学第三校跡」というのがあった。

この付近は探索したことはあるのだが、今までその存在に気が付かなかった。

グーグルマップを見ていると、普通の地図にはないような未知のものを発見できることがあるので楽しい。

訪問してしまった後なので、事前調査ではなく、事後調査となるが、仮小学校の歴史を簡単に調べてみた。

日本の近代的な初等教育は、明治5年の学制発布に先立ち、明治2年2月には新政府が『府県施政順序』を制定して「小学校ヲ設ル事」を府県の施政の大綱の一つに掲げたことに始まる。
明治3年、東京府はその方針を受けて、府内の寺院を仮校舎に、以下の6つの小学校を開校。

第一校が芝・源流院(現・御成門小学校)に、第二校が市ヶ谷・洞雲寺(現・番町小学校)、第三校が牛込・万昌院(現・愛日小学校)、第四校が本郷・本妙寺(現・湯島小学校/本妙寺はその後移転)、第五校が浅草・西福寺(現・育英小学校)、第六校が深川・長慶寺(現・深川小学校)となっている。

その6校中、第二校と第三校の2校が新宿区域にあったということで、とりあえず2校の痕跡を探索してきた。

訪問日  2024年4月18日

東京府仮小学 第三校跡

訪問場所 東京都新宿区筑土八幡町

民家の塀に説明板が設置されていた。

 この地は、明治3年(1870)東京府によって設置された教育施設である仮小学の跡である。
 仮小学は、六校が市内の寺院の堂塔を利用して設けられたが、その第三校は曹洞宗久宝山萬昌院(現在は中野区上高田に移転し萬昌院運寺となっている)の境内に置かれた。明治5年(1872)に日本近代教育の基礎となった学制が発布されたが、明治政府はこれに先立つ明治2年(1869)、東京府に仮小学の設置を求めていた。これを受け府は、翌年に仮小学六校を開校し、そのうち第二校と第三校が現在の新宿区内に設置された。仮小学は、学制の原則である国民皆学・教育の機会均等をめざした小学校とは性格を異にし、当時の華士族を対象とした教育の場であった。教育内容は漢学中心で近世における藩校の特徴を色濃く残していた。仮小学は、明治4年(1871)文部省の管轄となり、その第三校は日蓮宗善国寺(神楽坂五丁目36番)境内に移転して「文部省小学第三校」と校名を変える。同6年(1873)には、再び府の管轄となり、市ヶ谷加賀町16番地に移転し、学制下の公立小学校として「第三中学区第二番公立小学牛籠学校」と改称する。その後、「同公立小学吉井学校」と校名を変更し、同13年(1880)に市谷柳町の「第三中学区第四番公立小学市ヶ谷学校」と合併し、牛込区北町26番地の「愛日小学」(現新宿区立愛日小学校の前身)となり現在に至っている。
 仮小学は、日本の近代教育制度確立への過渡期に設けられた教育機関として記録すべきであり、その跡地は地域史上、教育史上の史跡として重要である。

番町小学校発祥の地

訪問場所 東京都新宿区市谷八幡町

慶長二年(1597) 旗本武士等小庵を開創
  五年(1600) 関ヶ原の合戦
  七年(1602) 武家相寄り当寺を建立。智德兼備の誉れ高い勅特賜高岳太材禅師用叔松応大和尚を開山に請し、山号龍谷山と名付け、寺号を洞雲寺と称す。
  八年(1603) 江戸幕府開く。
室永二年(1705) 小林角右衛門尉政利の正室 清死亡 行年62歳。
       当寺再興の徳行を讃え、清を再開基とし、龍谷院殿洞室清雲大姉の法名を授与す。

半僧坊大権現・嘉石観世音菩薩奉安。
  明治初年、寺に奉安するや信者の参詣年々増加し、講社を結びて信徒千有今に至り寺運繁栄、都内有数の寺院となる。

日本最初の小学校設置
  明治2年(1869)の明治政府による小学校設置の奨励をうけて、明治3年6月12日、東京府下小学校として洞雲寺境内に開設された。
  明治5年(1872)6月、下六番町(現千代田区)に移転し、現在の番町小学校となる。

明治 ・昭和の災禍
  明治40年(1907) 12月、不慮の火災に遭い堂塔伽藍消失。大正末年これを再建す。   昭和20年(1945)5月25日未明、東京大空襲の最後とも云うへき戦火に罹り、全堂一朝にして灰燼に帰す。
昭和45年(1970)~46年12月まで1年半の歳月を経て堂宇を再建、今日に至る。

平成八年四月十八日、龍谷院殿洞室清雲大姉の正当日に当たり、ご開山、有縁旗本及び壇信徒各家ご先祖の徳行を偲び、ここに由縁碑を建立し、四百回大遠忌報恩会を厳修す。
洞雲寺二十八世 住 職 谷口愛山 
        副住職 谷口正好

「牛込區史」
龍谷山洞雲寺、高田寳祥寺末
慶長七年起立、開山本寺二代目勅特賜高丘大材禅師叔松應大和尚、元和二年五月四日寂。舊境内拝領地七百七十七坪、外町屋鋪五十三坪、寄附地。

「東京名所図会」
洞雲寺附半僧坊
洞雲寺は市谷八幡町十六番地にあり、龍谷山と號す、禅宗、高田寳勝寺末、開山は叔松應大和尚にして、現住職は其第二十五世吉川義顯といへり。墓地は十七番地にあり。八幡社の東に隣れり、寺は丘腹に位し、寺門市谷の濠端に面す、門外市廛の間に石標を建て、半僧坊大権現と刻す。
半僧坊堂は、門内、左にあり、明治三十年九月勧請する所、傍に碑あり、其事由を勒せり。

日本最初の小学校設置とあるが、Wikipediaでは、

日本一古い公立学校を起源とする公立小学校
新潟県小千谷市小千谷小学校は1868年(明治元年)10月1日(実質的には慶応4年8月16日)に柏崎県知事の許可を得て開校した「振徳館」が起源で、1967年(昭和42年)に当時の文部省教科書調査官目崎徳衛により「公立学校として日本一古い歴史を持つ学校」という見解が出されている。

日本一古い公立小学校
上京第二十七番組小学校京都市、現・京都市立京都御池中学校)、下京第十四番組小学校(現・京都市立洛央小学校)は1869年6月30日(明治2年5月21日)に番組小学校として開校。

と書かれており、番町小学校より古いものがあるようだ。

今後、残りの4校についても訪問し、レポートを書く予定にしてしている。