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旧町名&電力プレート 文京区駒込東片町

最近はインスタに投稿されているものが引き金になり、自分のブログの投稿のきっかけになっていることがよくある。

今回は何の記事にしようかなと思い、インスタを見て、あっ、これにしよう、ということになるのである。

過去に撮ったものがそのままになっているものが多数あり、インスタに投稿されている方のおかげでお蔵入りになっているものが蘇る。

 

またやってしまった。

既に電力プレートは「電力プレート ヒガシカタ」で紹介済だった。
投稿したことは全く記憶になかった。
気が付いたのは、2022年6月22日の今日のことだった。
でも新しく発見したものもあるし、他の情報も追加してあるので、これでいいとするしかない。
そもそも、読者の方も以前紹介したものなど覚えていないだろう。

なので、黙ってそのままにしておこうと思ったが、良心の呵責が、それを許さなかった。

それでは、気を取り直して、改めてというか、2度目の登場となるものもあるが、紹介していこう。

 

①文京区駒込東片町130番地

発見日  2021年3月9日

発見場所 東京都文京区向丘一丁目

 

②ヒガシカタ-7

発見日  2021年3月9日 

発見場所 東京都文京区向丘一丁目  

 

③ヒガシカタ-14

発見日  2021年10月12日

発見場所 東京都文京区向丘一丁目

 

④ヒガシカタ-14

発見日  2022年6月18日

発見場所 東京都文京区向丘一丁目

③と④の「ヒガシカタ-14」同じものが見つかることは少ない。
ツインズは珍しいのだ。

 

旧町名案内

むかしは、岩槻街道中山道 に沿って発達した宿駅で駒込宿 の名があった。駒込村の内であった。
寛永年間(1624~44)、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので、駒込片町といった。
明治2年、徳性寺門前、九軒屋敷、追分町の残地を併せた。中山道の東側にあるので駒込東片町とした。
同5年、大円寺、正念寺などの寺地を併せた。
中山道岩槻街道との分岐点が追分で、一里塚があった。東大農学部正門前の角に現在高崎屋がある。宝暦年間(1751~64)の創業で酒屋と両替商を兼ねていた。
 ”くたびれた奴が見つける一里塚”(古川柳)

 

歴史

1878(明治11)年11月2日
東京府本郷区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市本郷区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都本郷区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都文京区に所属。

1964(昭和39)年8月1日
住居表示の実施により、現行の向丘一丁目、西片二丁目に。

1966(昭和41)年4月1日
残余は本駒込一丁目に編入となり消滅。

 

地名の由来

昔は岩槻街道中山道に沿って発達した宿駅で、駒込宿の名があった。寛永年間(1624~1644年)、村内は殆ど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので「駒込片町」といった。
1869(明治2)年、駒込徳性寺門前、九軒屋敷、駒込追分町の残地を併せ、中山道の東側にあるので「駒込東片町」と改称。駒込西片町との区別を付けるため、「東」を付けた。

中山道の西側は「駒込西片町」になった。
「この西片という地名の名づけ親は当時の阿部家の当主。東片の反対側にあったから西片という安易なつけ方をしたことを後悔していたとも伝わっている」

 

本郷追分~白山上の両側は、旧・本郷区駒込東片町である。住居表示によって、西片・白山(西側)と向丘(東側)に分かれてしまった。
西片を残して東片町を消滅させ、旧・東片町を新・西片に組み入れたのはどうなのか?

 

追分一里塚跡

一里塚 は、江戸時代、日本橋を起点(きてん)として、街道筋(かいどうすじ)に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃(だちん)の目安、道程(どうてい)の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(おなりみち)(旧岩槻街道(いわつきかいどう))との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎(えのき)が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。

かつて旧中山道を「キュウチュウサンドウ」や「イチニチジュウヤマミチ」と読んだ方いるとかいないとか。

 

本郷高等小学校跡

東京市本郷高等小学校」は明治41年(1908)4月、「本郷尋常小学校」(現在地・文京区立第四中学校)の一部を仮校舎として開校した。この年より新しく設けられた高等小学校は、尋常小学校卒業生を対象に修業年限2~3年の普通教育をほどこす小学校で、旧本郷区内に一校設けられた。開校当時の生徒数は431名。10学級。
明治43年(1910)5月、この地(旧駒込東方町17)に市内では初めてという木造3階建て校舎を新築し移転。明治39年本郷区第一実業補習夜学校」、大正7年東京市立第三実業補習学校」を併設。
昭和8年(1933)、「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
昭和16年(1941)4月、「東京市本郷第一国民学校(高等)」となる。
昭和22年(1947)3月、学制改革により廃校。同年4月から新設の「文京区立第六中学校」になる。